町 の 話
● 弘 智 法 印

 私は死ぬのではない。すべてを生かしている。力と共に三世を貫いて永遠に生きる。絶対に死なない体となるのである。だから私が眼を閉じても、埋めたりしないでもらいたい。
 未世未代の衆生の中で、もしも、色々な悩みに苦しめられていた時は、そしてその人が本当に心から生かし生かされて、私たちの真実な姿を悟って信心を込めてすがる時は、必ずその人の願いをかなえさせてやろう。(弘智法印も御誓願)

 人間かげぼし 即身仏(ミイラ)などと気味悪げに呼ばれる弘智法印の肉身仏の安置されているのは、寺泊町野積の「西生寺」である。

 弘智(こうち)さま詣りといって、昔は安全無事を祈って夜半に起きて身仕度をし、出かけたものである。浜の者は船で行った。陸路を行く者は草履履き、背には握り飯を背負って行った。なかには、弥彦(神社)、国上(国上寺)、野積(西生寺)と出かけるものもあった。

 野積の寺では、その頃から寺の客殿に泊めたり、精進料理の賄いなども出したりした。船で行くものは先ず、食糧、飲み水を用意し、祭り休みとか盆休みを利用して出かけた。漁に出るときと違って遊山詣りなので、普段通り慣れた海路だが、山の青さや海の色が目に染みて美しく眺められ、櫓を漕ぐ者ものんびりと押しながら、海上五里弥彦の山が海に落ちる野積の浜へ船を着けて、それから山に登るのだ。

 野積の弘智法印さんと、大衆に親しまれている法印さんとは、どんな人だろう。下総国(千葉県)は、山桑村という村の生まれで、家は農家だった。匝瑳郡匝瑳村(そうさぐん・そうさむら)の蓮花寺という寺で得度された。遠く紀伊国(和歌山県)高野山にのぼって修業されたこともあった。その後故郷に帰って来られ、蓮花寺にしばらく住んでいたが、成仏という人間の究極の理想ということに真剣に取り組んでいるうちに、寺にいることが出来ない心境になり、行雲流水の旅に出られた
。 諸国を歩きながら成仏の因縁を求め、草鞋をすすめているうちに、越後路に入り、野積の岩坂と云う処に差し掛かられた。此処は真言宗海雲山西生寺の東方にあたる所で、法印は珍しい仏法僧の声を聞かれ足を止められた。ここが後に草庵となった。船で来た者も、歩いて来た者も、道しるべを辿って、難路の細道を登るのである。

 遥かの断崖の上に枝ぶりの良い松が見られ、寺の屋根が見られるが、まだまだ行き着くには容易でないことが分かる。一本松というところで休むと寺泊、出雲崎、椎谷、柏崎までが望まれる。天気の良い日には佐渡の山野が手にとるように眺められる。
      いはさかの  あるじをたそと 人とはば すみえにかきし 松風のおと

 はらい川を渡り岩坂を越えると昼なお暗い樹齢幾百年の大木に囲まれた、大伽藍、空も見えない茂みの中に、小鳥のさえづりが聞かれ、やがて寺の境内に入る。この辺り一帯は弘智法印霊場と呼ばれている。
 ミクロ菩薩は釈尊の後、56億7千万年にお出ましになるというのだから、ゆめのような話である。生きた身体ではミクロ菩薩のお出ましに会うわけには行かない、私はこのまま、入定しょう、そしてミクロ菩薩の御出生を永く待とう。
 
 法印は決心され断食生活に入られたという。法印が人間の命の息を引き取ったのは、貞治二年十月二日の秋半ばであった。弘智法印霊場奥の院は、近くに竜神の滝、不動の滝があり、院の裏手にある法印が座禅を組まれたといわれる座禅石からは、弥彦の峯が望まれる。

 弘智法印の先祖は、鈴木五郎左衛門という人で、その次男に生まれた。法印が入定してから遺骸はそのまま埋められないで安置された。眼を閉じて、顔に皺があって、眠っているような姿で、頭巾を冠り法衣に包まれておられる。

 お詣りを済ませた人達は客殿(愛染明王が祭ってある)へ、上がって休んだり鐘楼跡の見晴らし場に行って、立山、白山、米山の秀峰を眺めたり、親鸞上人手植えの銀杏の下で休んだり、東京出雲崎会の人達は帰郷するたびに、この霊場を多くお詣りしている。

 昭和44年4月、この霊場に思いがけないことが起こった。寺の境内の梅の花も開き、椿の古木にも花がついた。小鳥の囀る音はのどかさを増していた。弘智堂をお参りする人達の数も増え始めた。この月の14日午前2時半、寺の近くの南泉院の庫裏から出火した。火は本堂を焼き、寺蔵院にも燃え移った。

 野積部落から遠く離れている山の事とて、消火の応援が来るのも容易ではない。火は益々燃え広がった。西生寺には、住職夫婦子供と修行僧他数人しかいない。
 皆で力を合わせて仏像だけは守ろう。 応援隊が駆けつけてくるまで、何とかして延焼から守りたいと、住職は客殿の屋根の上に、修行僧達は、阿弥陀堂を、支配人は弘智堂と、それぞれ持ち場を決めて消火に必死になったが、その甲斐もなく、経蔵は焼け落ちてしまった。ようやく麓から部落の人々が消火にきてくれた。
 この火事で南泉院の先住、中興第二十三世・良弘和尚は、本堂本尊安置所で住職就任以来四十九年、73歳の生涯を閉じてしまった。            (北越霊場西生寺より)