山 の 話
● 子 育 て 観 音 の お は つ

 今は昔、西越の稲川という村に、「はつ」と呼ばれる子供好きの女がいた。はつは生まれつき、今でいえば少しあったかい(たりない)ところがあったが、その性質は温順にして清廉。まるで仏様(ののさま)のような女だった。家が貧しいために、はつは、8歳の年から子守り奉公に出された。

 最初にお世話になったのは、出雲崎の新田(しんでん)(今の木折町)の廻船問屋、山三の家であった。おはつは、坊ちゃまの三郎さまをおんぶしては、近所の子供達と木折様(神社)の丘の上から、青い海に白帆の行方を珍しそうに眺めたり、鬼ごっこ、かくれんぼをしたりして暮らした。三郎様が5歳になると子守りも要らなくなり家に返されてきた。

 続いて子守りの口が掛かってきたのが、乙茂村のさる家からで、おはつは、この家にも縁あって四年の間、お世話になり、かすり傷一つ負わしても大変と、大事にしてきた年松様が5歳になると、この家からも手が要らなくなったとて、暇を出され家に帰ってきた。

 続いて出雲崎の遊廓高砂楼の一人娘、おきぬの子守りに雇われて三年間、艶かしいこの遊里で日を送った。年貢米の未納、その他の苦しみの挙句に売られてきた貧乏人の娘たちが、厳しい躾けのこの世界で、叩かれて泣くとき、はつも共に泣き、女達がご飯を食べさせて貰えない時は、自分の分を、そっとやったりした。

 おきぬが手が掛からなくなると、この家も暇を出された。その次、その次と、まるで子守りをする為にこの世に生まれてきたように、はつは、家々を廻り歩いているうちに、三十年の歳月が流れて、子守りをした人数も50人を越した。

 出雲崎まつりを見に行ったとき、はつは自分が子守りをした、山三の坊ちゃまに人混みの中で、ばったり会った。家の人がついていられ、はつじゃないか、あの時子守りをして貰った三郎だよ、と紹介され成人した坊ちゃんが自分をじっと見つめていられる姿に、きまりが悪くなった。はつは、慌てて人混みの中に潜りこんだ。
 村の祭りを見にいっても、美人になった、かって自分が子守りした子を遠くから眺めながら、はつは心嬉しく思っていた。
 いつか、村の人々は、はつのことを子育て観音などと、あだ名を付けてしまった。女と生まれその喜びを知らず、人の生んだ子を、後生大事に育ててきた、はつには相応しい名だった。

 はつの父母はいつか他界し、村の旦那様の家で、はつを引き取って後々まで面倒を見ようと云う話が持ち上がったとき、村を揺るがすような騒ぎが起こった。
 はつが焼死したのだ。乳飲み子を置いて、かかさが、亡くなった家が、村の近くにあり、はつは、その家に頼まれて子の面倒を見に行っていた。村の寄り合い場から、遅くなって帰ってきた。その家のおととが、その夜寒い寒いと、囲炉裏に火を焚き、火が縁の下にはぜ飛んだのも知らないで眠ってしまった。
 夜半、はつは、ふと目にしみる煙を不審に思って起き上がったときは、もう辺り一面火の海だった。「助け給え」「我が身はどうなってもこの子を」。はつは必死となってこの子供を抱いて、焔をくぐったが、燃え崩れた梁の下敷きになってしまった。息も絶え絶えのはつと、子供が助け出され、子供は、子供は、と、はつは子供のことばかり心を残しながら、あの世の人となった。

 はつの焼死を哀れんだ村人は、村を挙げて大供養をし、椎谷観音にこのことを報告し、はつの冥福を祈った。その年の秋、はつが焼死した家の後に一面のコスモスが咲き乱れた。綺麗だ、はつの死を哀れんで仏様(ののさま)が、花を咲かせて下さったのだ。通る人々は足を止めて、合掌瞑目してから去った。