越後出雲崎の代官、植松親正(うえまつ・ちかまさ)は、温厚篤実の人だった。
一年交替で佐渡の国の奉行を務めていた。この年は、嗣子信房を共なって佐渡に渡っており、一年間の在勤が終わったので帰ろうとしたが、途中で思いがけない大雪に見舞われ、本陣宿「紀の国屋」に泊って雪晴れを待った。
紀の国屋の主人は、新蔵といい、妻はなく、小杉、小雪という心の優しい、美しい姉妹がいた。姉の小杉は亡き母が熊野の観音様からの信仰で授かった子といわれ、起居振舞(たちいふるまい)娘としての教養の全てを身に付けていた。
植松親子の滞在は、止むのを忘れたように降り続く雪で、幾日にもなった。そして或る日、紀の国屋の奥座敷で主人の新蔵を相手に世間話をして興じていた。若い信房はそんな話にも飽きて、ふと下の間のはりまぜの小屏風に目を止めた時、そこの和歌一首に目を奪われた。
けふはここ あすはいづくか行くすえの しらぬわが身の おろかなりけり
紙といい、墨の色といい、まだ真新しいものだった。姉娘小杉の書いたものであることが判り、父、親正ともども興ありげに眺めていたが、急に小杉と会ってみたくなり、新蔵に話すと、小杉、小雪の姉妹は親正父子に挨拶に出た。
親正はその夜、村長(むらおさ)を招いて何事かしきりに尋ねていたが翌朝雪が止んだので出立することになり、慌ただしい中、主人の新蔵と小杉を呼んで、思いがけない話をきりだした。
いかにあろうとも、心の澄んだ優しい信心深い娘を、息子の嫁に貰いたい。雪の日、本陣宿紀の国屋に泊まった日、小杉という、その家の娘を見て、親も子も気に入り、雪解ける春、出雲崎代官植松家の嫁として迎え入れたい。
それまでは、身に間違いがないよう、一層のたしなみ(修養)をするように、と村長にも内内の話があり、この家の主人新蔵には約束の印に、その日までこの品を預けておくと、信房の腰に下げていた印籠が渡された。雪に閉じ込められた小さな村は、たちまちこの事が広まり、村人達は、小杉の縁組を喜び合った。
だが、この縁談の成立を喜ばぬ者もいた。新蔵の後妻「まつ」と、まつの実家の、まつにとっては末弟幸作であった。まつは、幸作が、兼ねがね、小杉を慕っているのを知って、必ず力添えして嫁にやろうと一人決めていただけに、まつの心には、暗い影がさした。吹雪の中にその年も暮れて正月になった。新蔵は朝から旦那寺や村長の家へ年始廻りに出ていた。そのあとへ幸作が訪ねてきた。
誰が来ても小杉を出すなと、戒めて出て行った良人の言葉に背き、まつは幸作の居る部屋へ小杉にお酌をさせにやった。そこへ新蔵が帰ってきた
親の顔に泥を塗ってと、まつの言い訳を聞かばこそ、小杉の手を掴んだ新蔵は、お殿様のお詫びには、お殿様の在所の見える所でと、峠の頂上へ登って、血相をかえたまま、刀の鞘をはらった。
髪は乱れ、青ざめた顔を涙でぬらした小杉は手を合わせ必死に許しを乞うたが……。父が振り下ろした刀の下に手を合わせる娘。風が鳴り、落ちてきた雪の塊とともに、小杉の姿を呑んで雪の谷間へ落ちていった。
ふと正気付いた。小杉は両手の指が父の刀に斬られたことを知った。家へ帰れぬ身は、吹雪の中を彷徨い歩いているうちに、思いがけない神仏のご加護を受けるようになった。(洞穴に住む熊の夫婦に助けられたと記されている)
出雲崎代官の子息信房は、心の妻と決めた小杉が行方不明になったと聞いて、晴れぬ気持で毎日を過ごしていたが、ある年の春、雪解けの山に熊と共に住む女が居ることを聞き、家来と共に山に向かった。山狩りは行方の分からなかった小杉を代官親子の手にかえすという、好結果をもたらしてくれた。
父子の喜び、母御前の喜びは大きかった。そして改めて婚礼の儀が出雲崎の邸の中の持佛堂の前で行われたのは、それから間もないことであった。手指の無い妻であったが、信仰厚く心の優しい小杉は、良人ばかりではなく、父母にもよく仕え、植松家には、明るい日々が続いた。
両親の喜びは元より、佐渡へも早速その喜びの報が伝えられた。折り返して佐渡の信房の元からも喜びの言葉が書きつらねられ、その親書が使者に手渡されたが、ふとした使者の手違いから、この親書が心良く思っていない、紀の国屋のまつの手に渡ってしまった。
まつは、小杉の幸福をねたむ余り、信房の文を取替え、手指の無い妻が産んだ子は見たくない、手指の無い妻と生涯連れ添う気も無い、等の事を書き綴り、それが小杉の元に届いた。手紙を読んだ小杉は、哀れにも生まれて間もない乳飲み子を背に負うて、書置きをして出雲崎邸を後にした。
善光寺をお参りしたいと念じながら、手指の無い身に子を背負うての旅は辛かった。小杉が善光寺の堂の下に辿り着いたのは、その年の秋の半ばのことだった。訳ありげな小杉の姿を哀れんだ寺の尼たちは、何かと世話してくれた。子を抱えて、朝夕の勤行に加わった小杉の姿は、慈母観音の姿そのままだった。
一方、出雲崎の代官屋敷では、八方手を尽くしたが、小杉母子の行方が分からなかった。経机の上に載せられてあったこれまでの感謝の手紙と、妹小雪が、もしや迎えられるなら、宜しく頼むとの文に、植松父子は涙に暮れるばかりで、ただ無事を祈るのみだった。紀伊の国、
高野山は弘法大師様御入定の御地だが、そこは、女人禁制の御山で、女は登れぬそうだ。小杉が亡き母の菩提のため、紀の国屋の父や義母、妹のため、そして今は、懐かしい良人、信房、植松家祝福のためにと、高野山を志したのは秋も終わりの頃だった。 弘法大師様の光明を信じ信濃路を下った。
ありがたや たかのの山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる
乳を求めて泣く子を背負い、持ちにくい杖にすがって、一心にお大師様のお宝号を唱えながら険しい山道を辿っていると突然、藪陰から「その子をくれ、俺には子が無いんだ。大事に育てるから」と髭づらの山男たちがふさがった。
ああ乳の匂いがする。その子をくれ。俺は子が欲しい、と小杉に襲い掛かって来た。必死に逃げようとして揉みあっている内に、火の付くように泣いていた背の子の泣き声が止んだ。みどり死んでしまったのだ。
山を下り山陰の家で子の無い夫婦は深く己の罪を詫び、生きている限りお墓の御守りを致しますと、手をついた。子供は綺麗な水の流れる谷陰に葬られた。
わが子の肌着と、柔らかい髪の毛を抱いた小杉は、これも我が身の宿業と思い、人を恨んではならないと、一人旅を急いだ。子供を立派に育て上げいつか、良人の元へ送りたい。もうその望みはなくなってしまったのだ。
小杉が善光寺で朝夕の勤行に加わっていたとき、尼が教えてくれた高野山の麓、神谷里の善兵衛という人の門に立ったのは、雪の深い日だった。ほとけ善兵衛と呼ばれた老人は、小杉を家の中に入れて、これまでの身の上話を聞いて泣いた。
「亡き吾子(わこ)さまの遺髪(かみ)は、この善兵衛が、お大師様の御廟(みたま)の近くにお納めいたしましょう。だが貴方様は高野のお山にお参りになれません。高野は女人禁制のお山で御座いますから。」
ほとけ善兵衛の言葉に張り詰めていた心の内も乱れ、小杉はその場に泣き崩れてしまった。その頃、出雲崎代官屋敷では小杉の身を案じた良人信房は、病に倒れていた。
高野山には、女人の参籠(おこもり)所はありません。御信心深い女の方は老木の陰に野宿して一夜を明かし、山の外輪から、遥かの高野の山を仰いで、お大師様の霊地に額ずき信仰を深めるのです。明日は、この善兵衛が共に山の入り口まで参りましょう、と情ある助けを戴いた。
善兵衛の温かい思いやりに泣かされ、その翌朝小杉は善兵衛につれられ、不動坂の急坂を深い雪を踏みしめて登った。ここからが、高野の境界と云う所で、善兵衛は足を止めた。この先は女は山内に立ち入れないので御座います。雪の中に座った小杉は、お大師様を念じ、此れまでのことを感謝し、いつまでも額ずいた。
あのお山の入り口へ、小屋を建てたい。吾子の為に守り袋に入れて居りました金子(きんす)がそのまま残っております。此れで小屋を建てさせてください。そして、あのお山の入り口まで登って来られる女の方にせめて、暖かいお茶でもお上げして、狭くとも共に参籠したい。神谷の里へ帰って小杉は善兵衛に話した。
小杉の願いに善兵衛は喜んで同意し、早速高野山に登って、お山のお坊さん方に伺いを立てると信仰の深い小杉の願いは聞き入れられ、春になって不動坂の上に、小さな堂が建てられた。
美しい黒髪を切り、白衣姿の小杉が、お大師様を慕って登ってくる女の人に、優しく接待する姿が見られたのは、それから間もなくであった。そして誰言うともなく、この堂を女人堂と呼ぶようになった。
それから数年後、出雲崎代官、植松信房(小杉の良人)高野登山のみぎり、女人堂前で、はからずも、かっての妻小杉に再会した。紀の国屋の妻まつも吾罪の後悔の為に、高野に登って来て、小杉に会い、小杉と共に此処で報恩感謝の日々を過ごし一生を送った。
信房も、お大師様の御冥護を感謝して、後年には共に仏門を志したと言われる。 【資料 女人堂の由来より】 |