海の話

● か え ら ぬ 船

 手舟は戻り、荒れる海に日はとっぷりと暮れた。厳しい、あられのあと、物凄い吹雪になった。かえらぬ船を待つ家族のうえに不安はつのるばかりだった。
 何処かの土地に船が着いてくれればいいが。いまは、ただそれのみが頼みだった。だが、明くる日も其の次の日も船の手掛かりは得られなかった。遭難したことが確実になった。………明治年間の冬のこと。………………

 夜半の空模様が良かったので、町中の鱈(たら)船が出漁した。場に着き仕事にかかる頃に風が急に降りて来て海は大荒れになった。狂乱怒涛の魔の海を、必死に逃げ戻り、家の裏に無事着けた船はヤレヤレと安堵の胸をなでおろしたが、一隻、かえらぬ船があった。 すぐ手舟が出された。だが夕方になっても船の手掛かりが得られなかった。船には11人が乗り組んでいたのだった。

 夜、子供達の枕元へ、グッショリとずぶ濡れになった父親がたった。ある家では寝もやらず、親類縁者が集まって不安な夜を心配しあっている折、表の玄関の戸に何かが「ドスン」とぶつかった…など気味悪い話が広がった。
 かえらぬ船の乗組員の安否は何日たっても分からなかったが、ある朝、七つの石海岸【三島郡寺泊町】のある家の老人が、流木拾いに出て、チゲを拾った。

 このチゲ(沖弁当)から、この遭難船の最後の様子が判った。チゲの中から手紙が出てきたのである。寅松17歳、この青年がこの船の中で最も年少者であった。寅松は、慌てず騒がずこの手紙を書いた。
 風が降りて来た(突風)とき、漁場にいた船は道具(漁具・はえなわ)を捨てて我先にと逃げ始めた。遭難船の船頭、秀太郎は、逃げることはない、こんな時アワを食う奴は馬鹿だと、悠々と構えていたが、此れが誤りだった。
 船は粉々になるほど波浪にやっつけられ、乗っている者は、二人・三人と波間に消えていった。もはや生きて陸地に帰ることなどは、夢となった。これまでの運命なんだ、いさぎよく死のう、覚悟ができると心が静かになった。遥か陸地に向かって手を合わせると皆が沈んで行った。帰らぬ船、尊い犠牲者。

 毎年の3月15日には、多聞寺に於いて、宗旨を問わず町中の寺院方が集まり、漁業組合が主になり、盛大な供養が行われる。  チゲの中から出てきた寅松の走り書きに皆が泣かされたのであった。
●い か つ け
 函館へ「いかつけ」(いか釣りのこと)に出かける漁船は出帆を前にして米、味噌、酒、薪炭、塩、漬物等を積み込む。米などは八表くらい持っていく。これらの品物は出来るだけ土地の商人から買って、帰ってから支払いするのである。
 これらの準備が終わり、明日はいよいよ出帆と決まると、それぞれが神社仏閣にお参りして、海上安全と豊漁を祈り夜は船元の家へ立ちぶるまいに呼ばれるのである。

 いよいよ出帆の日である。家族や親類の者に見送られながら、出帆時の作業に励むのである。「気い付けてくらっしゃい」「達者でのう」と見送る声を背にしながら沖へ向かう。
 沖合いへ出ると「三度の廻り」をしている。これは神社仏閣へ航行の安全を祈る儀礼であり、浜に立って見送る者への別れである。一隻の乗り組みは、大抵12名前後であって、次第に霞んでゆく故郷の山々を眺めながら、函館港へと急ぐのである。

 途中船を湯の浜へ着けて、山形大山の善宝寺さんを、お参りしていくのを出雲崎漁師の習わしとしている。
「もう函館へ着いただろうか…」家族の者が案じている頃、いか釣りの出稼ぎ船は泊りを重ねながら番屋に着いた。

 休む間もなく、いかがあると云う情報にすぐ出漁した。海の上はいかを狙って全国から集まった漁船で戦争のようだ。いかの群れが函館沖から潮に乗って移動すると、それを追うようにして、恵山の灯台付近まで船を進めた。
 このあたりには、「しおくみ」と呼ばれる潮の早い難所があって、小さな越後船(出雲崎の船のこと)で乗り切るには命がけである。渡島半島の端にある恵山の麓には温泉場があって、白い湯煙は船の上から眺められる。
 いかが、更に八戸方面に移動すると、下北半島の先にある「いぬおい灯台」の沖合いにまで行った。そこも潮の流れが速く、船もろとも巻き込まれそうになる。船の下は地獄のようなものである。

 故郷を遠く離れて出稼ぎに来た者にとっては、家族からの便りが何よりも楽しみである。手紙を読みながら、帰りを待つ妻子の為に、一銭でも余計に持って帰りたいと思うのみである。
 そのため、「けちんぼお」と、云われるくらい皆が倹約するのである。また僚船の誰よりも多く稼ごうと死に物狂いで、いか釣りに励むのである。
     忍路高島(おしょろたかしま)およびもないが せめて歌棄磯谷(うたすついそや)まで…
追分節が悲しい調べで流れてくる。故郷遠くはなれ、北海の荒海へ出稼ぎに来ている、誰かだろうが、妙に家族が想いだされて、故郷が恋しくなる。それもつかの間の感傷である。

 全国から集まった猛者が目の色変えて、いか釣り戦争が始まると、そんな感傷は霧散して、時には場の争いから血の雨を降らす騒ぎが起こる。故郷を立つときは「身体を大事にするんだョ」と云われた家族や身内の者達の言葉も戦争のような激しさの中では、忘れ果ててしまうのである。
 怪我をして海に落ちてしまう事さえままある。僚船は出漁を止めて三日三晩探し回るのだが、北海の海に落ちたものは、中々見つからない。悲報は直ぐに出雲崎に電報で知らされる。家族の悲しみを思うと身を切られるようだ。 また、他国船にぶつけられたり、大きな船のあおりをくって、ひっくり返ったりすることもある。

 いかの最盛期というのは、学生であろうと、教員であろうと、寺の住職であろうと、ともかく手の空いている者は、皆な駆り出されるのである。これらの人達は「いちぶんづけ」と呼ばれる船に乗り組んで出て行くのである。

 函館半島の突端にある弁天岬に打ち寄せる波が荒くなり、厳しい寒さと共に雪が降ってくる頃になると「いかつけ」をきりあげる時期になる。荷物を纏めて船で帰る者と、連絡線で青森に行き、汽車を待つ間に土産の(りんご)を買うのである。
 豊漁だった年は景気よく、みやげ物を買われるし、皆な嬉しそうだが、不漁の年は土産どころか、「借金を質に取る」と云う諺があるが船や漁具を質に入れて、帰る旅費をようやく作って出雲崎までやっとの事で帰り着くような事もある。そんな年はみじめなものである。
 命を賭けて北海道で働き、帰るときは借金を背負って来るのだから泣くにも泣けない。家族と顔をあわせることも出来ないくらい、辛い悲しいことなのである。それどころか、帰って来るのを待っていたかのように、召集令状が来る。若者達は次々と戦争に駆りだされて行った。こんな年の出雲崎は火が消えたようなものであった。
 明治のはじめから、始まったと云われる「いかつけ」も今では、昔語りとなっている。
                                (海岸地区老人クラブのみなさんの話より)