手舟は戻り、荒れる海に日はとっぷりと暮れた。厳しい、あられのあと、物凄い吹雪になった。かえらぬ船を待つ家族のうえに不安はつのるばかりだった。
何処かの土地に船が着いてくれればいいが。いまは、ただそれのみが頼みだった。だが、明くる日も其の次の日も船の手掛かりは得られなかった。遭難したことが確実になった。………明治年間の冬のこと。………………
夜半の空模様が良かったので、町中の鱈(たら)船が出漁した。場に着き仕事にかかる頃に風が急に降りて来て海は大荒れになった。狂乱怒涛の魔の海を、必死に逃げ戻り、家の裏に無事着けた船はヤレヤレと安堵の胸をなでおろしたが、一隻、かえらぬ船があった。 すぐ手舟が出された。だが夕方になっても船の手掛かりが得られなかった。船には11人が乗り組んでいたのだった。
夜、子供達の枕元へ、グッショリとずぶ濡れになった父親がたった。ある家では寝もやらず、親類縁者が集まって不安な夜を心配しあっている折、表の玄関の戸に何かが「ドスン」とぶつかった…など気味悪い話が広がった。
かえらぬ船の乗組員の安否は何日たっても分からなかったが、ある朝、七つの石海岸【三島郡寺泊町】のある家の老人が、流木拾いに出て、チゲを拾った。
このチゲ(沖弁当)から、この遭難船の最後の様子が判った。チゲの中から手紙が出てきたのである。寅松17歳、この青年がこの船の中で最も年少者であった。寅松は、慌てず騒がずこの手紙を書いた。
風が降りて来た(突風)とき、漁場にいた船は道具(漁具・はえなわ)を捨てて我先にと逃げ始めた。遭難船の船頭、秀太郎は、逃げることはない、こんな時アワを食う奴は馬鹿だと、悠々と構えていたが、此れが誤りだった。
船は粉々になるほど波浪にやっつけられ、乗っている者は、二人・三人と波間に消えていった。もはや生きて陸地に帰ることなどは、夢となった。これまでの運命なんだ、いさぎよく死のう、覚悟ができると心が静かになった。遥か陸地に向かって手を合わせると皆が沈んで行った。帰らぬ船、尊い犠牲者。
毎年の3月15日には、多聞寺に於いて、宗旨を問わず町中の寺院方が集まり、漁業組合が主になり、盛大な供養が行われる。 チゲの中から出てきた寅松の走り書きに皆が泣かされたのであった。 |