明治九年五月 讃岐船、港口暗礁に触れ破船
積荷……塩、砂糖、空豆、煙草、半紙、木綿、鉄也
明治九年六月 護送に蓮台輿を用始む
明治九年六月 東京大角力興業
明治九年七月 米人ライマン油脈を調査
明治九年八月 加賀藩戊辰戦死者永代供養料納む
明治九年九月 熊の見世物興業
明治九年十月 尼瀬本校新築上棟式
明治九年十月 出雲崎側街灯建揃ふ
明治九年十二月 勝見沖に下宿小廻船難破
明治十年二月 大風波小廻船遭難
明治十年四月 諏訪神社村社昇格を上申
明治十年四月 鱈場へ又又三半船網入れす
明治十年五月 尼瀬出雲崎地引絵図成る
明治十年六月 春日永太郎名義にて手掘井出願
明治十年九月 電信線街路に架設さる
明治十年十月 妙福寺境内に五日間芝居興業
明治十年十月 越前船 漂着
明治十一年一月 加藤直重、石油鑿井に本腰
明治十一年一月 内藤久之、北国街道改修に奔走
明治十一年二月 内藤久之、鱈場及三半漁場紛争仲裁
明治十一年五月 御巡幸行在所準備整ふ
明治十一年 明治天皇、出雲崎行在所御着輦「出雲崎の史的趣味」

明治天皇陛下親しく車駕を北越に巡幸し給う山河草木為に光輝を放ち万民為に福祉を祝う時は明治十一年九月十四日鳳輦をこの僻地に留めさせ玉ひて畏くも真宗光照寺を行在所充て玉ふた、町方には光照寺の近境悉く青竹の矢来を廻し各所に衛兵を置きて警護し供奉の官人八百十六人、馬四十九頭は寺院民家五十三戸を割り当て旅館と定め各社寺門前の石仏、標柱一切を取り払ひ市街一面敷砂を盛って浄め各家雁木には粗莚を敷き詰め礼装下座して鳳輦を待奉った。午後二時過ぎ、陛下は龍顔麗しく行在所にお着きになった。(中略)陛下には本堂に次ぐ廊下までお出ましまして水や空なる月下の海上点々たる漁火、数里に亘る光景を天覧あらせられた。かくてよく十五日は午前十時御発輦となった、駕籠方に出雲崎を過ぐるの時海上茫々遥かに小雨の佐州を望ませられ慨然として往時を追懐し給ひ富小路侍従を遣わせたまひて順徳帝の遺跡を訪はしめ御代拝を御付けられた。御聖情の厚き畏くも有難い(後略)
 「明治天皇聖跡記」
行幸せしむかしおもへは佐渡のしま
      なみだに月のほのかなるかな    <徳大寺實則>
「出雲崎にやとりける夜」
なかなかにこよひの月はくもらなん
    みゆれはかなし佐渡の島やま <二等侍補 高橋正風>
明治十一年九月 秋季皇霊祭被仰出
明治十一年十月 長岡石油会社試掘願い出る

明治十二年十一月 加藤直重、単独借区開抗願出る「加藤直重所蔵文書」
居宅土蔵裏へ鑿井、深さ二間三尺にて石油発見、一升余り汲取る
明治十三年(1880)一月 加藤直重に鉱業許可指令下る
明治十三年五月 手堀井、出水に悩む
明治十六年七月 与板出雲崎線県道開墾発案さる
明治十六年八月 羽黒神社再建
明治十六年 電信局 羽黒町に移転
明治十七年十二月 稲荷町、大山崩れ
明治十八年七月 加藤直重石油礦井景況届出「加藤直重所蔵文書」

一ヶ年出油六十二石五斗余り
明治十九年(1886)内藤久寛、石油鑿井に苦心す「内藤久寛翁春風秋風録」
我が郷里石地の隣地なる三島郡尼瀬にては「草生水の澗」と称する
海面に石油浮び海浜の砂を掘れば石油の滲出を見る事
珍しくも無かったが明治十三、四年頃の人々、手堀を以って市街地に油井掘鑿を行ふと共に稍や油業の勃興を来たし明治十八、九年頃には手堀井続々出油を告げてゐた、私は度々尼瀬に遊んで石油稼行を見たが其結果石油なる物が将来非常の発達を遂げるべき可能性を有する事を感じ、もし之を堅実なる組織に依り開発するに於いては国家を益する事必ず多大なるべしとの考えを懐いた(中略)ニューヨーク領事の亀頭氏に米国石油事業に関する詳細の報告を得た(後略)
明治二十年二月 北陽舎、鑿井許可さる「耐雪夜話出雲崎物語」
明治十八、九年から二十二、三年頃石油手堀の全盛時代であります。噴油ごとに芸者の総揚げでドンチャン騒ぎが其処此処と時々行われる、其のうちに甚兵衛鍛冶と云う大谷甚平は愈愈翌日は夜逃げと腹を極めし夜、俄に井戸が噴いて百本も二百本も(二斗樽)汲めども汲めども汲みきれぬといふ有様。俄大盡となった甚平は御礼参りで讃岐の金毘羅様へ同行十数人を引き連れて出掛ける途中、江戸の吉原で大門の扉を閉めさしたと云う噂が郷里に伝えられる、見送りも出向かえも椎谷、柏崎と子供まで華やかに迎えている
明治二十年 北陽舎 五号井の大噴油「北越史料出雲崎」
北陽舎第五号井の如き、一日百五十本(二斗二升入)三十三石を汲収せしと云う
明治二十年四月 井之鼻校廃止、出雲崎文教所となる
明治二十年四月 尼瀬校尋常科尼瀬小学校と改称
明治二十年十月 三度出雲崎仮校をうつす
明治二十年十二月 烏丸伯爵、橘屋に朱盃を贈る
明治二十年 石川半次郎 日蓮一代記を彫刻す
明治二十一年(1888)一月 尼瀬町宗別戸数調
明治二十一年五月 井之鼻大火、約八十戸焼く
明治二十一年六月 日本石油会社設立「北越史料出雲崎」

内藤氏は石油浮湧より察し海中に必ず大油脈存在すべきを思ひ自家の経験より海面を埋め立て石油を採取するの必ずしも困難ならざるべきを信じ会社設立の決議する
明治二十一年 石油企業家続々と尼瀬に集る
明治二十二年三月 尼瀬町・勝見村合併。尼瀬町と称す
明治二十二年四月 勅使東園侍従、石油業視察
明治二十二年六月 有栖川宮殿下、日本石油ご視察
明治二十二年八月 北陽舎石油井出火五十八戸焼く
明治二十二年 尼瀬に於ける手堀の全盛「尼瀬町政要」

二十二年頃は其杭数、実に四百口以上にして採油高は凡そ一万六千石なり、当時の鉱業者と地元との関係上実数は四十五万石か云々
明治二十二年十二月 尼瀬石油社と海面使用協定
明治二十三年十一月 鑿井器機を手堀井に据え置く
明治二十四年二月 漁船遭難「妙福寺、浄玄寺過去帳」

二月九日大風により難船にて死す、尼瀬七名、出雲崎四名
明治二十四年四月 日本石油会社続々出油
明治二十四年四月 尼瀬町役場を伊勢町に移す
明治二十五年二月 東京石油会社一号井大噴油
明治二十五年 天然痘流行

明治二十七年 尼瀬油田の殷賑絶頂に達「北越史料出雲崎」
日本会社のみにて二十七年の年産額は二万石以上に達せんとせり
明治二十八年五月 征清凱旋式挙行