安政元年(1854)鳥井權之助に軍艦建造を唆す
安政元年(1854)十月 軍艦をバッテイラ早船に急変す
安政元年(1854)バッテイラ建造、町方反対す
安政二年(1855)松川辨之助、蝦夷地開拓許可さる
安政二年(1855)江戸大地震救助金募る
安政三年 初夏 鳥井權之助、北海開拓に発足
安政三年 鳥井權之助、北蝦夷地差配人に推薦
安政三年 行餘館、廃校
安政三年 北海開拓準備急ぐ
安政四年 鳥井權之助 樺太沿岸を視察
安政四年六月 順風丸、知床岬を廻る
安政四年六月 異国型船出雲崎入港

町方の者始近浦在より見物に群集之事に御座候
安政四年八月 樺太漁業やや其の著に付く
安政五年 樺太漁業、一万石を夢む
安政五年五月 孝婦由利碑を善勝寺に移す
安政五年 樺太越年者二十三人凍死す
安政六年(1859)越後大洪水「敦賀屋文書」

当国は六月中差入より雨天続きにて土用に入り二十一日より二十五日まで日和、二十六日より日々大雨続きにて大川筋洪水、地蔵堂、与板は町内舟にて通行致し云々
安政六年(1859)悪疫猛烈に流行 「念相寺過去帳」
岩舟町に流行致し盛時は、一日17〜18人計り葬式出棺有之。昨年の疫病と同じく、皆朝参詣仕、昼時分または夕方皆死仕
萬延元年(1860)八月 羽黒神社再建
文久元年(1861)怪星、顕はる「浄厳寺過去帳」

五月二十六日異星、戌亥あたりに顕れ、長きこと一丈六〜七尺もハッキリ致候事
文久二年(1862)長寿者に褒美金下賜「編者文書」
家持、吉太郎、母ふの86歳 青銅三貫文目
文久二年(1862)諏訪社悪疫祓祈祷執行「編者文書」
当八月中より諸方悪病はやり候に付、閏八月二十三日諏訪明神様へ町内悪病祓祈祷祭致し候
文久二年(1862)石地町、大火
文久三年(1863)鳥井權之助、加賀藩士に北海道開拓を建白す
文久三年(1863)山本泰世没「良寛全集」

橘新左衛門泰世。泰樹眺島斎の長男也、能く父の風を学び歌を善くし、書に匠也。文久三年亥四月十三日没。壽五十四歳
文久年中 函館御用船、石地へ漂着
元治二年(1865)紀興之(出雲崎土産)上梓「編者旧記」

紀興之は会津藩士、文学あり謡曲に匠なるを以って優遇せらる
産物見立…出雲崎ぶり、出雲崎曲物、勝見西瓜、出雲崎鱈デンブ、出雲崎南瓜
元治二年(1865)代官、石神彦五郎客死、年賀遠慮
元治二年(1865)二月、鰯大漁「相田日新録」

上町仙次郎と申す漁師、鰯とり、代金七両に相成候
元治二年(1865)出雲崎代官所、川浦の預所となる
元治二年(1865)雪降らず「念相寺過去帳」

この年雪降らず高田に雪一〜二寸位、関山等馬相立不思議な年也
慶応元年(1865)野口家甲子丸新造
慶応元年(1865)羽黒町浜に馬市を立つ
慶応元年(1865)新発田若殿出府の途次宿泊
慶応元年(1865)羽黒町石井町屋台喧嘩す
慶応元年(1865)長州征伐献金被仰付
慶応元年(1865)七月、狂風海難死二人
慶応元年(1865)七月、大海蛸供養、善勝寺にて
慶応元年(1865)七月、諸式高値尼瀬祭礼差止む
慶応元年(1865)当出雲崎代官所一部移封、大混乱
慶応元年(1865)八月 佐渡行き天保通宝到着
慶応元年(1865)「越後孝婦伝」三百五十冊を代官所に納む
慶応元年(1865)佐渡奉行交代来泊
慶応二年(1866)出雲崎代官所陣屋整ふ
慶応二年(1866)長防征伐献金者に白銀下賜
慶応二年(1866)港内入船舶三十艘に及ぶ
慶応二年(1866)三月 尼瀬浜にて馬市及辻出る
慶応二年(1866)五月 七千石君澤型大船通る
慶応二年(1866)五月 身延山管主、善勝寺へ巡化
慶応二年(1866)六月 佐渡地金銀入津
慶応二年(1866)六月 長防征伐金一時上納方申付
慶応二年(1866)野口七左衛門名主兼帯を引退す

慶応二年(1866)八月 台風船舶遭難多数「相田日新録」
八月八日朝ダシ風昼前より風強相成昼より海上時化立、漁船間瀬へ十三、野積へ三隻着候、石地之当所山田等へ着候、町方屋根ハグリ候分数多塀等損候家家数多漁船七艘破船十六人死、云々
慶応二年(1866)米高値またまた騒ぐ

慶応三年(1867)光明天皇崩御、御松飾取り払い鳴物御停止
慶応三年(1867)長州征伐献金者褒章さる
慶応三年(1867)佐渡輸入魚類を助子に開放
慶応三年(1867)二月 島崎大火、良寛遺墨焼失免る
慶応三年(1867)石井神社再建御壱遷宮
慶応三年(1867)諸式高値、悪疫流行「念相寺過去帳」

唐船到来より此の方諸式高値に付相成年々毎に人気悪敷、ソロリ、ハシカ、等諸病流行其他、地震等災難、毛利家関東方京都にて戦へ長州にて戦へ小笠原、三大名地を取られ城を抜かれて等にて三月まで諸式高値に相成り、云々
慶応三年(1867)七月 三本柱三千石船、港外碇泊
慶応三年(1867)七月二十三日 越中船竜巻にて難破
慶応四年(1868)出雲崎代官所、天朝領被仰付
慶応四年(1868)天下の風雲愈愈急也「相田日新録」

三月十日昨日より新潟御開港道具類在方に運ぶ者有、会津軍長岡出立、当所までの先触れ到来人足用意の先触れ有、二十七日与板に会津軍勢押寄せ、二十九日松平越中之守様、江戸より蒸気船にて新潟にお着き寺泊にお泊り、今日敦賀屋、お昼にて石地にお泊り、馬四匹、お荷物人足百一人お触也
慶応四年(1868)代官所内、大乱脈を訴える
慶応四年(1868)水戸浪人歩兵、出雲崎を本陣とす

慶応四年(1868)出雲崎代官所明渡し迫る
慶応四年(1868)薩摩藩士、敵情偵察中に殺さる

慶応四年(1868)代官所水戸勢力に引き渡されんとす
慶応四年(1868)官軍、直江津に迫る
慶応四年(1868)五月 水戸勢敗走し来る「相田日新録」

五月六日天気夜雨、水戸人数は椎谷、官軍は宮川に罷り有両所の間にて昨夜より戦有之、不意を被討水戸方敗北、云々
慶応四年(1868)五月 代官所役人及び水戸勢、一切当地引き払ふ「出雲崎夜話」
出雲崎大混乱。石地口から、稲川口から怪我人を引っ切り無しに野口へ運ぶ、役場では炊き出しの飯を配らせる。女達や子供は西越、島崎の親類知己を頼って逃がす。裏山や浜辺へは至る所に穴を掘って家財道具を隠し、また其の中に非難せる、全町は恐怖の修羅場と化す。しかるに代官所の上役人は水戸勢の敗北を見ると真っ先に船を出して逃げ落ちたのです。逃げ遅れた下役人は井之鼻口へ出かけたが町端に固めの衆があって通さぬ為、又引き返してウロウロ。恐れと混乱の中に五月十四日の日没後相退却と決まり軍の側に倣って焼き払うから近辺の家家では片付け物をせよとお達しが出されたが、陣屋には火を放たずに退却したとの事です。ガランとした空洞の様な出雲崎の町に居残った亭主達の顔色は死人同様であったとの事です。この時、役場では官軍出向かえやら今後の善後策について大評議をやって居ります。
慶応四年(1868)五月 官軍出雲崎に入り本営を敷く
慶応四年(1868)五月 官軍 脇野町へ進撃

出雲崎方面の兵を招集し、且多くの船舶を徴発し長岡の対岸に進み云々
慶応四年(1868)石井神社祭典及び火葬を禁ず
慶応四年(1868)官軍、下口追討戦を繰り返す
慶応四年(1868)脱走の町役人帰り来る
慶応四年(1868)幕艦「順動丸」撃沈さる

薩長の軍艦、出雲崎に碇泊す。幕艦順動丸進路を誤り出雲崎港内にはいり、慌ただしく寺泊に向かって針路を転ず、されど燃料乏しく速力出ず、大いに狼狽。薩長軍艦、其の幕艦也と気付くや直ちに碇を巻き上げ追撃し寺泊港外に於いて撃沈す
慶応四年(1868)下勢、頑強に抵抗す
慶応四年(1868)官軍、島崎に散らる
慶応四年(1868)六月 長岡藩、降伏使出雲崎に来る「出雲崎夜話」

長岡家老、稲垣平介が帰順派を代表し汚名を忍びて密かに出雲崎へ来られ官軍参謀方に嘆願書を差し出しました云々
慶応四年(1868)七月 下勢反撃進軍し来る「相田日新録」
久田、落水、戦場と化し会津、官軍共、死者怪我人多数出る