文政七年 三月十八日  漁船遭難
文政七年 十二月八日 大風漁船遭難
文政十一年(1828)大風巨涛

十月五日四ツ過ぎより六日朝迄大風にて町家、屋根石吹き飛ばし大波は波涛を打ち崩し海船破損夥し
文政十一年(1828)三条の大地震「浄玄寺過去帳」
十一月十二日朝五時大地震、町家の土蔵残らず崩落、屋根石落ちること雨の如し
文政十二年(1829)地震救難者賞典さる
町代一名、百姓六名、差出米致し、云々
文政十三年(1830)百歳長寿者に米十俵下賜さる「敦賀屋文書」
米十俵但三斗五升入 出雲崎町百姓孫四郎祖母スキ、右スキ百歳に罷成長寿に付、云々
文政十三年(1830)悪水降り貧民困窮「浄玄寺過去帳」
七月十六日夜悪水降りそれより諸方の稲に虫付、稲黒く枯れ米穀高値に相成り、米一升に付百文余にて当町より下、村上まで大困窮、有徳之者粥を炊出し貧民を救ひ、或は銭米杯を施し露命を助けしむ
文政十三年(1830)良寛上人罹病「大愚良寛」
秋頃からの衰弱は冬の寒さの加わるにつれて益々その度を増して行き、年の暮れ頃には再び立つ時の無いことを明らかに思はせるやうになった
    ◎裏を見せ おもてを見せて 散るもみじ
    ◎いついつとまちにしひとは来たりたり
         今あい見てなにか思わん(貞心尼に)
    ◎さす竹の君と相見てかたらへば
       此の世に何かおもひのこさん(由之に)
天保二年(1831)良寛上人遷化
良寛は島崎へ移住して五年目の文政十三年の夏頃激しい疫病を患い衰弱した。一進一退したが、冬になり愈愈衰弱が目に見えてきた、人々も今は之が最後であらうと観念してゐた。由之、貞心尼を始め親しき人々は幾度となく、その病床を見舞って看護してゐる
◎生き死にの界はなれて住む身にも
         さらぬわかれのあるぞ悲しき(貞心)
天保二年(1831) 良寛禅師石碑建立企つ
天保三年(1832)大前田栄五郎、島破り出雲崎に渡る

「関甲子楼出雲崎」天保三年八月二十日晩、暴風雨に乗じて島破りを為し越後へ渡り出雲崎へ出て観音寺の間宮勇次郎の処へ来て、牢内で父親に頼まれた遺言を伝へると、云々
天保四年(1833)大干潮、地震「念相寺過去帳」
天保四年巳十月二十六日八ツ時、大地震にて暮方に塩干澗の所まで水引、水増して夜四ツ時分まで大騒ぎ也
天保四年(1833)飢人九百十四人に施粥す
天保四年(1833)凶作、白米一升百文となる

諸国大風雨凶作、白米一升百文
天保五年(1834)稲荷町山崩れ
天保五年(1834)由之橘左衛門泰儀逝く
天保五年(1834)佐渡奉行所、買入米調査方来る
天保五年(1834)佐渡より米買出に来る
天保五年(1834)石地勝見、積出米にて騒ぐ
天保五年(1834)寺泊船、積米にて騒ぐ
天保五年(1834)稲荷町山崩れ止まず植林願出る
天保五年(1834)御用船永保丸、加賀沖にて遭難
天保七年(1836)大凶作、米価一俵壱両に高騰
天保七年(1836)鱈魚を常食として米飯に代ふ「上玄寺過去帳」

諸国一統悪作に付米穀高値に相成、同年七月、米四斗二升入り一俵、一両弐歩二朱までに相成り新潟辺りは六斗入り一俵十五貫位にて前代未聞、その他のもの其れに準じて高騰(略)当町にては鱈などの魚類を日々の食物に致し命を繋ぐ者多し(略)
天保七年(1836)飢餓者救助に全力を尽くす
天保七年(1836)出雲崎火災
天保八年(1837)三月、飢餓救助金貸下さる。同四年飢餓救助者へ下賜さる。同年、出雲崎救民に尼瀬側大いに奔労す
天保九年(1838)五月、御国巡見使渡海
天保九年(1838)佐渡島民大騒動を引起こす
天保九年(1838)御徒目付、佐渡騒動吟味に渡海す
天保十二年(1841)御倹約の趣意を町民に触渡す「柿木屋文書

御趣意に付町方改革申渡今般乍恐公儀様御政務、云々
天保十三年(1842)海岸守護の鉄砲を名主(橘屋新左衛門)に貸下ぐ
天保十三年(1842)佐渡奉行、久須美六左衛門渡海
天保十三年(1842)物価値下を代官所に答申
天保十四年(1843)またまた代官所位置争奪戦を惹き起こす

天保十四年(1843)代官所位置に尼瀬側反訴書提出
天保十四年(1843)代官所位置に所領村方、両派に分る
天保十四年(1843)代官所位置に尼瀬側弁訴す
弘化二年(1845)代官所増築を尼瀬現位置に指定
弘化三年(1846)青木才兵衛家、塾を開く「五適先生杜徴伝」

尼瀬の自宅に寺子屋式家塾を創め、町内の子弟を教授せり
嘉永元年(1848)脱獄者を宿して罰せらる
嘉永五年(1852)吉田松陰来たり、塩太に滞留「出雲崎夜話」

世は既に騒然として英仏の艦船が琉球へ来たとか、米艦が浦賀に来てゐる時代、出雲崎沖も異国型の帆船が来てゐる。町民は驚愕の眼を見張って代官所に畏れ乍と注進してゐます、太平の夢未だ醒めざる出雲崎へ飄然として寺泊街道より尼瀬、塩屋太左衛門方へ宿った二十三歳の青年があります。詩を高吟して雲浦埠頭に立ち、日夜古文真宝の一冊を暗誦して、十三日間も根気よく渡海日和を待ったこの青年こそ、天下の志士、吉田松陰であったと知ってゐた人が果たして有ったでしょうか、云々
嘉永五年(1852)佐渡奉行渡海 同年大風波
嘉永五年(1852)風波漁船遭難

十一月八日朝のうち天気にて舟を出した処五ツ前に俄に落荒れ来たり舟帰り申さず大騒ぎ、町で九人、石地で三人遭難す
嘉永五年(1852)十一月 鍛冶小路、山崩れ
嘉永五年(1852)妙現尼みか刀自入寂
嘉永六年(1853)内藤鐘山病没
嘉永六年(1853)正月二十三日漁舟遭難、朝天気昼大荒れ
嘉永六年(1853)御陣屋稲荷大修理
嘉永六年(1853)行餘館開校「編者旧記」

儒学を尊崇せる代官、篠本彦次郎にはこの地の教育制度を改善し領内の教育程度を向上せんと企画し領内有志の拠金を以って行餘館と称する学校を善勝寺境内に建設せり、教師の俸給は代官自弁とし経費は領内の寄付金を持って支給芹、云々
嘉永七年(1854)近海不漁「鳥井政利雑記」
五月十二日町方御用に付おもやに参る、祭礼のお話当年は漁も無之人気甚だ不景気に付賑やかしの事にも到り不申、十七日例年よりは淋しき祭り、云々
嘉永年代不詳 女流書家、加藤玉聲来る
安政元年(1854)油田地調査「温古之栞」
越後の石油脈は信濃の浅間と越中の立山より通ずることは享保五年及び安政元年、幕府より派遣された地質学者に依り調査せし事は古老も知るところなり。石油源鉱が三筋に分かれ、一つは海に入るもの、一つは刈羽三島地方を経て弥彦浦より海に入る。一つは東方の高山から奥州に入る。この他は何れも海に入り北海を経て遠く北海道に連なる、油質は頚城を第一、刈羽三島を第二、蒲原古志魚沼を第三、云々
尼瀬鍛冶小路の綱五郎なる者あり自然薯堀、松茸狩り等に独特の妙手也、生家は臭生水溜りの付近也、終日臭生水澗海岸の溜油燃用法を研究し世の物笑いとなりしが遂に「カンテラ」の一種を発明し、名主野口弘平の称楊すれど産土諏訪神社の祟りを受くとの迷説盛んなりしかば、このカンテラ使用する者なし由。