寛保二年 孝女由利の行状を嘉称さる
孝婦由利子は三島郡村田村農夫伊兵衛の女にして性質温柔、尼瀬の大工作太夫に嫁せしより能く婦道を守り姑に遣えて至って考也云々
寛保二年 幕府 「越後孝婦伝」を天下に頒布す
大学頭林信吉に命じ由利子の伝を作らしめ各所に領行す
延享二年 鯨寄、諏訪社再建料に下附さる
延享三年 家重将軍御国巡見使渡海
延享三年 尼瀬大火、拝借米金願出
寛延四年 尼瀬町「間口割絵図」作成
宝暦四年 以南、橘屋に入り婿
宝暦五年 俳諧伝燈塚を建つ
宝暦八年 橘屋「栄蔵」生る

「大愚良寛」宝暦七十二月に、良寛は長男として生まれた。その時「以南」は二十二歳、秀子二十三歳。
宝暦九年 以南、橘屋を継ぎ名主役となる
良寛の一生」 良寛が生まれた翌年、宝暦九年、以南二十五歳のとき如何なる事情からか養祖父新左衛門は家職を孫に当る以南の手に引き継がしたのである。多分病弱か何かであらう。橘屋は其の内情は兎も角、対外的に随分苦境に立ってゐたのである。されば良寛が名家橘屋の総領として生まれたことも決して人が羨むほど、僥倖な身の上ではなかった訳である。云々
宝暦九年 佐渡御用船難破
宝暦九巳卯年十一月八日、小木港出帆の御用船、沖合いにて難破し御証文状箱二つ宿継状箱二つ流失せし処、越後之国石地浦沖合いにて猟船見当り状箱二つ取り上る云々
明和四年 橘屋栄蔵、狭川子陽の塾に入る
明和九年 旱天雨乞いの祈祷なす

「編者日記」百姓大に集り、妙福寺住職に依頼し蛇崩れ七面山絶頂にて雨乞いの祈祷をなす。感応ありて大雨沛然として到る。百姓此れを徳として祈祷所付近一帯を妙福寺に寄進す。今現に石祠を存し同寺の所有也。
安永三年 橘栄蔵、出家剃髪、大愚良寛と称す
安永四年 以南また敦賀屋に式日参賀を咎む
安永四年 敦賀屋、以南の横暴を内訴す

代官元締め役、以南を説論す。以南、元締の再説論にも応じず、敦賀屋公然朝上参賀を許さる
安永六年 大工、小田与七、岡野町広済寺建立
安永七年 良寛上座備中玉島に赴く
天明元年(1781)佐渡奉行渡海
天明元年 出雲崎、尼瀬、両町現勢調査

      家数……出雲崎576軒 尼瀬422軒
      人数……出雲崎2601人 尼瀬1808人
      寺………出雲崎17ヶ寺 尼瀬11ヶ寺
      医………出雲崎2人   尼瀬9人
天明三年 凶作米壱俵代貫五百文也
天明三年 良寛のはは、秀子逝く
天明五年 母の喪追善に良寛帰省されしか
寛政五年 真夏に雪3寸降る

「柏崎文庫」六月二日雪降る、越後3寸
寛政七年 橘以南、桂川に入水す「沙門良寛全伝」
七月二十五日天真仏のお告げにより身を桂川に捨つ
 蘇迷盧の山をしるしに立ておけばわがなきあとはいつの昔ぞ
寛政九年 良寛上人、五合庵に入る「良寛百考」
二十年の永い雲水の旅から越後に帰ってきて、七拾四歳でこの世を去るまでの35年間に数回住所を変えたが其の中で長く住んでいたのが国上山の五合庵である
  いざここにわが身は老いむあしびきの国上の山の松の下いほ
享和二年 伊能忠敬 海岸測量に来る「伊能忠敬翁沿海日記」
九月二十九日朝より曇る五ツ後、寺泊出立、この日度々雨降る、夜晴天測量。同晦日まで逗留、柏崎まで六里半余りと云うにつき、二里余り測る、この夜曇る五六星計る、それより大雨。十月一日朝少し晴れ六ツ後出雲崎、駅次、月下十五日尼瀬町と代わる、出立。云々
享和三年 大風波、漁船遭難
正月二十三日 十人海上難船にて死す「万因寺、善乗寺、光照寺」過去帳より
享和三年 奥州の士、石地駅にて天狗に隠わる「北越奇談」
奥州士某、柏崎に赴く途中石地の駅にて馬を継ぎて馬に先立つ事半町ばかりにて町端に出ると見へしがたちまち其の行く末知らず、馬方椎谷に至り問屋へ其の荷物を渡さんとせしも受け取らず、是非無く石地の問屋へ申す所、町役人柏崎の陣屋に訴ふ、よって其の荷物を本国に返す、半年ばかり過ぎて其の士、故郷の己が家に帰れば人々驚き其の故を問ふに、始め石地駅端へ出る時、山伏一人い出きたり道すがら相話して行く程に、忽然に金閣玉楼莪莪を見る其の地を山伏に問へば日光山也と言う、士驚きて之を拝せんとすれば忽ち夢の覚めたるが如く平地に出づ、良く見れば故郷也しといへり。
文化七年(1810)亀田鵬斎、五合庵に良寛上人を訪う
文化八年(1811)橘茂世(三条の人)蛇崩れの奇瑞を説く「北越奇談」

出雲崎の南、勝海浜と云へる処、先年海岸の絶壁崩れ蛟龍いでて海に入る。名付けて蛇崩れと云ふ。其の後村老五衛門といへるもの一夜いでて海上を望み見るに山のなだれ落ちたる処、水底に光ありて波上に月影を見るが如し。村老怪しみて夜な夜な試みるに尚、燦然たり。若者に命じ船を漕ぎ寄せ求るに一塊の白石あり、之を得て家に持ち帰れば、即水上の光不見、この石夜な夜な席を照らす、見る人、市をなす、県令之を聞ひて下官に命じ借りて見ん事を欲す。云々
文化十年 (1813)惣蔵、河童にとらる「養泉寺過去帳」
中条村惣八の倅、惣蔵、ナオイダニ池の河童に取られ死す
文化十三年(1815)江戸評定所に漁民対決被仰付同年下宿漁民出府返答書を提出
文化十三年(1815)入会漁場に付出雲崎漁民更に追訴
文化十三年(1815)石地漁民出雲崎に加勢方出願
文化十四年(1816)入会漁場検分に江戸役人出張
文化十五年(1817)入会漁場紛争判決、出雲崎勝訴
文政元年(1818)七月 再び下宿沖にて漁民大乱闘
    「関本与左衛門文書」

出雲崎漁師より刈羽郡下宿村漁師は相掛り御訴申し上げるは、七月晦日夜、出雲崎町漁船十七隻、頚城郡柿崎村沖合い漁業営罷在処、下宿村漁師一同数十隻乗来たり、出雲崎漁船を取囲、狼藉。右の内十二隻の船数箇所相痛め諸道具海中に投げ怪我人溺水人在、云々
文政元年(1818)十辺舎一九、来る
山田より二里ばかり行きて出雲崎と云う処に至る、この所至って繁昌の湊也、市街の長さ一里余りも在るべし、前面は海、背面は山にて町巾到って狭し、此処に宿をとりてその夜、「けんどん屋」と云う茶屋に行きて女郎数多挙げて踊り騒ぐ、かのおけさ松坂、その他種々越後節を弾きかける、云々
文政三年 天神ケ森山崩れ「越後野志」
十二月十五日 出雲崎天神森山崩民舎三十六戸倒壊、死者二人