天正四年 出雲崎御水帳作成さる
謙信公によって御水帳作成され、土地台帳の基礎がこの時出来上がった。屋号から考察すると納屋(漁業)水揚屋(船漁商)大工、桶屋、筆屋、曲師屋、折敷屋、油屋、酒屋、紺屋、蝋燭屋、万屋、糀屋、鍛冶屋、笊屋、青物屋等が最も多い、此れは港町船着場の生業として相等しい商売である
天正六年 上杉謙信薨去(享年49歳)
 我一期栄一杯酒、四十九年一炊夢、生不知死亦不知、歳月只是如夢中
天正十五年 上杉景勝、多聞寺に白願書与ふ
景勝が往還の都度滞留で厄介になった、望むものを後日提出せよと白紙に花押し渡された
天正十六年上杉先遣隊出雲崎より佐渡に出陣
足軽五百人、其の将十二人総士百騎戌子五月六日
天正十六年 上杉大軍出雲崎より佐渡へ渡海
天正十六年 上杉景勝出雲崎より佐渡へ出陣「出雲崎夜話」
上杉家の家督争ひが景勝の勝利となって越後の国内は統一されしも下越方面の新潟城、新発田城が服せぬに依り、景勝はそちらに出陣するにあたり出雲崎を通過されたり、亦佐渡の本間一族を征討の為、一ヶ月も多聞寺に滞留され、その数一万騎ともいわれている。藤田能登の守を軍代として石地港から船出せしが、大半の討手は出雲崎から船出。しかし五年掛かっても征服できず、この間景勝は新発田因幡守を攻めに下越に向かうやら、越中に出陣するため春日山城に還るやら数回の往復ごとに出雲崎に宿陣し佐渡に征伐を監視してゐました。しかし一向に捗らないので自ら征伐を発表した。先発隊として大石播磨守、奉行に長尾加賀守で、足軽五百、将十二名、騎兵百騎を出雲崎から船出させ、翌七日には六千余りを出雲崎から沢根(佐渡)に上陸させる。景勝公は六月九日まで多聞寺に滞陣し軍儀評定を開く。翌十日、景勝公は軍船数百隻で軸櫓堂々と出発され、点々長蛇の如き船陣が万帆を孕ませて沢根港に着く。先発隊が占領していた沢根城に総帥旗を立てる。
天正十六年 上杉景勝、佐渡平定し出雲崎へ凱陣
天正十八年 豊臣秀吉 出雲崎を通過
天正年中 山本新左衛門、御舟歌三首作る

 ※一夜二日の正夢にいきさらぎ山の楠木を舟に造りて今おろす揖白金、櫓は黄金、白金の柱を押し立てて黄金のセビを含ませて、ハズに縄をととなひて、綾や錦を帆にかけて宝の島へはせこんで、数の宝を積み込みてやるぞお江戸の品川へあなたの御蔵へ納め置くヤーラーノーイ、エーンエーン、枝も栄える葉も茂る、ノーライ、メデータサヨ。
 ※出雲で名高き御茶屋の娘、髪は島田でつげの櫛、着物は薩摩の組飛白、帯は筑前上博多足袋はいて下はいて晒しの手拭肩に掛け小田原提灯手に下げて、あねさんどこと問うたなら追分習ひのその戻り、ご所望であるなら謡ひましょ、今まではそれと知らずに浮気をしたが主と定まりゃ辛抱する。
 ※茶屋へ腰掛け、酒の肴はなんじゃいな、問われし番頭の云うことにゃ、海は荒れるし漁はなしまあえのまあえの(前の前の)松ノ木に松の小枝に鷹とめて、小鳥とらしてトコあんちゃん酒肴。
慶長九年 大久保石見守 佐渡へ渡る
慶長年間 運上金銀 出雲崎に渡海
元和二年(1616)出雲崎代官所 徳川直轄公料となる

元和二年 尼瀬出雲崎間 大木戸を設く
南の方尼瀬岩船町と、北の方出雲崎の住吉町の間に大木戸を設く
元和五年 御金船 難破せんとす「出雲崎夜話」
佐渡奉行、鎮目市左衛門は同年12月御金船を率ゐて海を渡ってきた船足の軽いお召し船は早々先着したが、御金船は船足重ゐ、俄に大風吹き募り御用船を弄びまさに粉砕せんとするありさま、町民総出の救助作業も意の如く運ばず、奉行は橘屋を召し出し石井神社祈願を命じた、その甲斐あって御金船は沈没を免れた

元和七年 佐渡運上金銀 渡海最大量也
今年上納の筋金、参拾五貫七拾四匁弐分、銀、六千弐百参拾貫九百七拾弐匁九分 砂金、四貫八百参拾壱両(ママ)弐分 小判弐萬参千七百七拾六両也
寛永九年 鱈魚を将軍家に献上す 「出雲崎漁業大要」

寛永八年尼瀬港が築上され、翌九年には徳川将軍へ特産の鱈魚を献上することとなった。寺泊は領主に献上したので、出雲崎は公料として献上を続ける、江戸までの早飛脚で運ばせた
正保二年 河童止血薬を伝授す 「北越史料出雲崎」
島崎村桑原家に一つの奇物あり、其の形はあたかも双六石の如く、その質なんたるか得て知らず、同家嘉右衛門飼育馬が厩舎に帰り嘶く、見ると飼葉おけの下に河童がゐたり嘉右衛門此れを捕らえ腕を引き抜きたり、河童悲しみて云う、命を助け腕を返して給わば血止め骨折の妙薬を伝え、また人に害をすまじと誓いをなしける、腕を返し血止め薬を受く、金瘡、血留り難く百方不応につき、彼を招き早速血留り云々
元禄二年 芭蕉翁 来泊 「奥の細道」
鼠の関をこゆれば、越後の地に歩みを改めて、越中の国の関に至る、この間九日暑湿の労に神をなやまし病発りて事を記さず、
        文月や六日も常の夜には似ず
        あら海や佐渡によこたふ天川
「曽良 奥の細道随行日記」
七月四日快晴風三日同風也(中略)同晩申の上刻、出雲崎着宿す夜中雨強降。五日朝迄雨降る辰の上刻出雲崎を立、間もなく雨降る至る柏崎(後略)
元禄五年 久田及び勝見へ 鯨流れ寄る  「史料通信叢書」
出雲崎某家古記録写、

元禄四年来の秋、久田浜へ鯨寄、入札、十両余に落申候。
元禄五年春、石地勝見の境へ鯨寄石地支配にて入札、九両弐分にて落る
元禄八年五月十日 石地へ鯨流れ寄る、同二十二日大荒れ、鯨、勝見村へ流れ寄る
元禄十六年二月 尼瀬浦へ鯨打ち揚る
元禄九年 飢饉御貸米を嘆願す 「野口歴代編年」
乍恐書付を以って嘆願す
元禄十二年 御蔵米 嘆願す
元禄十五年 出雲崎神輿春祭りに尼瀬へ渡御
元禄年中 堀部安兵衛 伊勢町に仮寓す

養泉寺門前西側に暫らく仮寓し子供等に手習いを教えた
元禄年中 住吉町にて親の仇を討つ
六月二十六日夜五ツ時、住吉町にて親の仇打候者之大評判に御座候。云々
宝永六年 佐渡運上金銀及び御用金 渡海往来
「出雲崎夜話」運上金銀の運送

御金船即ち御用船2艘、何れも二百石以内で佐渡奉行に直属し佐渡と出雲崎のみに使用せしめ、佐渡奉行の送迎、運上金の運送に専ら渡海を司らしたのです。御用金渡海は大概年二回づつ銀十貫目入り三百箱〜五百箱を運搬します。下って元禄年間頃には漸く五十箱〜百箱位に減りました。毎年二〜三回の御金船渡海この湊の年中行事として明治維新まで三百年間休み無く継続されました。
享保二年 吉宗将軍御国巡見使、渡海
享保九年 御高札場に付き橘屋、横車を押す
享保十二年 京屋与衛門由緒書上げる
享保十三年 橘屋古証文3通届け出る
享保二十年 良寛の母「秀子」生まる
天文元年(1736)良寛の父「以南」生まる
天文元年(1736)岩船町、大山崩れ、妙福寺土中に埋没
天文元年(1736)山崩れの為、徳正寺転退