紀元150年代(前510)忍海王陵墓の伝説  「温古の栞」
 安寧天皇の皇子忍海(おしみ)王の陵墓と称し奉ると伝ふる立石村の史談あり。越後の国へ御下向され崩御に臨みご遺言にて此処に葬り奉る。押見、押海、高橋、高階、坂爪の氏名は、このご陵墓に縁ある者ならん。
天地天皇即位七年(668)燃土、燃水を献す「越佐叢書)
燃土(日本書紀等巻27)

頚城郡潟町村、柿崎村の一里ばかり山手、内雁子村に「旭」と云う池あり。池底の土を堀、日に乾かし薪の替わりにす。三島郡高森もしかり。
「越佐叢書」燃水 草生津油 臭水油
(本朝通記)頚城郡別所村、松山村、松木村、赤田村、真木村、蒲原郡草生村、新津村等の山間に湧き出る。出雲崎の南勝見村の蛇崩れの海中にも出る也。
和銅四年(711)石井神社を現況に移す
出雲大社を祀る、山本氏此れを司れり、山本氏は駅長を兼ね「橘屋」と云う。
養老五年(721)出雲崎小木間海上18里と算ふ「和漢3才図絵」
養老五年分雑太郡始置賀母羽茂二郡、小木巽方至越後の出雲崎海上十八里、至江戸海陸百八里二十四町、云々「続日本記」にいう。
延喜年間(延喜元901)大家駅、果たして出雲崎なりや
「和妙抄」古志郡大家郷…今、出雲崎の辺りを指せり
延喜年間 石井神社縁喜式三島六座に入る
御島石部神社、物部神社、鵜川神社、多岐神社、三島神社、石井神社
天徳五年(961)奇僧、生きながら土中に埋葬さる
「羽黒町史」羽黒町円海寺の僧俊性、兼ねてよりの願望により生きながら土中に埋葬さる。辞世の句に「脱ぎ捨てる古き衣のたひたひにあらはれい出し阿宇の月かも」
康平三年(1070)出雲崎名、古図に現る
康平三年の古代図(85余年前)寛冶三年の古代図(82余年前)
承保年中(承保元1074)海中出現の観音、堂を設く「北越史料出雲崎」光照寺
伝承の宝物中三光観世音、蛇崩れの海中より出現、よって安置す。一説に草生水油の中より拾いあげたるならんか
寛冶六年(1092)越後大地震、角田山西北陥没す「越後風土考」温古の栞34編
角田山より西北の方、打ち崩れ海となる。(6月17日戌申、越中越後大震、陸谷易処水沸出、壊民盧舎、圧死者衆。
治承元年(1177)新判官、源資行配流途上、久田にて病死
「北越史料出雲崎」

久田村郷野の山中に判官塚と唱ふる形ばかりの古塚あり、云々
文治三年(1187)源義経、出雲崎沖合いを遁る「越佐史料巻一」「義経記」
さて夜も更ければ片岡、元のみなと(直江津)に下りてみれば、佐渡よりわたしたりける舟にとまもふかず、ぬしもなく、ろかい・かじなどもありながら、なみにひかれゆられゐたり。片岡此れを見てあっぱれものやこの舟をとってのらばやと思ひ弁慶にけさのあらしに出さんとて(略)よな山(米山)を過ぎてかくた山(角田山)みつけて、あれ見給や風はいまだあらし、はるかの沖にただよい給いけり、お舟をば、さと(佐渡)のしまえはせ付けて、まぼろし、かもがた(加茂潟)へ舟をよせんとしけれども波たかくしてよせかねて(略)夜もやんばかりなれば風もしずまりてそことも知らぬところにお舟をはせあげて、くがにあがり、ここをばいずくとといけるを、ゑちごのくにてらとまり(寺泊)とぞもうしける。
建久元年(1190)尼瀬釈迦堂にて音羽の前、剃髪す「北越史料出雲崎」善勝寺
佐藤嗣信が母音羽の前、文治年中この釈迦堂にて尼となれり。妙照と改名せし由、口碑に伝ふ。
「北越史料出雲崎」念相寺
(前略)尼はのち大門に移住し、かの地に終焉す。尼瀬に居住せし後を寺とす、此れ今の念相寺にて、源義経より忠信に賜りし静女の鼓、公の陣羽織、忠信の甲冑、他の宝物を蔵す。
建久元年(1190)音羽の前 お袈娑を冠って踊る
 「出雲崎夜話」

八百年前より今に伝えて廃らぬ「おけさ節」。その根元は出雲崎から小木へ、小木から相川に伝へられたようです。或る処では(オケイ)と呼ぶ喉の良い芸者があって、お客の寝息を窺って怪猫の本性を現し肴を食べているのを、お客が見つけ、其れが噂になった。そのオケイが唄う歌曲がいかにも面白い事からオケイサ節と名付けたと云うことを耳にしました。

音羽の前の愛児が壇ノ浦合戦で華々しい最後を遂げたと聞き、嬉しさの余り尼僧達と法衣のままお袈娑を冠り踊ったと云うのが起源であります。オケサ節が地方え伝播したのは数百年後の天明寛政年代であります。
建暦元年(1211)親鸞聖人、出雲崎を通過されしや
米山の険難海岸を通行されど出雲崎に伝説を伝へず。ただ僅かに西越村大字藤巻片桐新左衛門方にご休憩の記事あるのみ
承久三年(1221)順徳上皇 出雲崎に御宿輦
      「越後佐渡における順徳天皇聖蹟誌」 多門寺

天皇には当寺に御宿輦し給ひ7〜8日間お舟待ちありしが土用波平らかならざりし云々。
文永八年(1271)日蓮上人佐渡へ配流
「小木の城山」日蓮上人旧蹟10月28日、久田で休憩後寺泊を経て佐渡へ渡られた。
文永十一年日蓮の高弟、日朗、釈迦堂に籠もる「越佐史料」赦免状
鎌倉よりの赦免状を持ちて3月8日佐渡の国につき云々
正応元年(1288) 釈迦堂を、大覚山善勝寺と改称す
元応元年(1319) 太宝院建立す
尼瀬諏訪社前に太宝院建立す
正中二年(1325)日野資朝、佐渡左遷。橘屋にて船待ち
「わするなよ程は波路をへだつとも替わらず匂へ宿の橘)短冊残す。
興国二年(1341)宗良親王西方院に御逗留の説
元中五年(1388)長尾高景、尼瀬より佐渡を征伐す

元中六年 長尾高景、越海の藻屑と葬らる
大軍を佐渡へ攻め寄せれど佐渡勢力の防塁堅固の為越軍不利のまま越年その2月8日高景は58歳で波間に死す
応永年中(応永元〜1394)中山村山中より釈迦金像発掘
三島郡上野山村日蓮宗顕本寺は、山中より金像一体を堀得る
文明年中 上杉家、出雲崎陣屋を設く「北越史料出雲崎」代官所の変遷
文禄二巳年より、佐渡の国鉱山支配所を兼務し町勢漸く多事ならんとす
永正七年 長尾為景大いに南雲浦(尼瀬)に戦ふ「出雲崎夜話」
世は室町時代の末期、出雲崎が如何に戦乱の巷と化し、その港湾が如何に活用されたかは興味あることと思う。文明年中の当時は上杉顕定の所領地で陣屋を設け佐渡金山を支配せしめた。謙信の父、長尾為景が佐渡へ敗走し再度陣を立て直し佐渡の軍勢を加え椎谷の浜へ上陸した(永正七年三月十八日)。戦争の惨禍を知らない出雲崎が戦乱の巷と化したのは、この日からです。椎谷の浦に上陸するや、石地口へ押し迫り蛇崩れの丘へ進軍した。出雲崎陣屋を守っていたのは、顕定の家臣五十嵐但馬之守八郎等が防戦したが味方に裏切られ惨敗され、長尾為景の所領地と変わった。13年後再び上杉家の領地に復す。
天文年中 石地村に甚句歌生る
刈羽郡石地村に甚句と云う漁夫あり訳ありて大阪に出向き米穀の取引をする。翌日変有りて米穀の値段が上がり大儲け、船40隻を駆って海藻や紅花を積み商いをする。その時に甚句夫婦が造った歌である。
 40だ40だと今朝まで思うた、39じゃものソリャ花じゃもの。
 甚句は越後の甚句、ゑちごじんくは世界の花じゃ。
 この二種を甚句の起源とす
永禄十一年 上杉謙信 出雲崎宿陣
元亀二年(1571)僧浄玄、念相寺を創立
天正元年(1571)宝光寺 過去帳を製作