「関甲子楼出雲崎」 
         柏崎日報

出雲崎の名称は、神社や寺院の由来縁起等に、出雲の国が分裂して此処へ付着せしとか、出雲の材木が漂着せしとか、いろいろに書いてあれど、此れらは附会の説にて取るに足らず。出雲崎の惣社石井神社の真体は出雲の大神、大国主之命を祭祀す。故に出雲崎と云う。この説やや首肯するに足る。この地は延喜式駅伝に大家とある土地なりとの説あれど確定致し難し。とにかく出雲崎の三字は、延喜後中世の命名ならん。如何となれば、延喜民部式に「凡諸国部内郡里等名併用二字必取嘉字」とあり、其の頃までは朝令厳に行われて国守任務を尽くせり。其の後王朝衰え武家跋扈の時代となり、地名官名等いろいろ私称するに至れり。出雲崎の名の古文書に見えたるは後冷泉天皇の康平三年に出来たる越後図に柏崎、比角、荒浜、椎谷、出雲崎、寺尾泊、のつみ、とあり云々。(以下略)

「出雲崎夜話」耐雪翁旧著
出雲崎開発の由来からお話した方が順序であろうと思われます。
何分にも茫々太古の事でありますから、口碑と伝説を辿って遠い昔を想像する以外道が無く、説を樹てる上に幾多の古文書漁って見ました

@古事記より……………この豊葦原中ツ国は我が御子知ろしめす処である。然るに至る所荒神が多く在って神命に随わぬため、八百万の神達が神議の結果、天菩比命を遣わし征討せしめた。ところが天菩比命は大国主之命に媚びつき三ヵ年経っても復命せず。と書いてあります。又、古事記の一節には八千矛之神即ち大国主之命は将に高志の沼河比売と婚せんとす。其の夜沼河比陪の家に行幸して云々と書いてある。大国主之命の越後征討の事実を考えるに大国主之命は少名彦名之命と戮力して天下を経営し。凶暴なりし豪族を服従させ皆和順せしめ、其の上北方の邪神を平定せんと頚城郡の居多の里へお着きになった。そこで嬌婉なる沼河比売を見初め相合い座なされ、建御名方之命(諏訪明神)をお挙げになった。

A吉田東伍博士の「古代略論」より………又石地の御島石部神社の碑銘をを見ますと(略)、沖から磯の方をご覧になると、桟のような巌が海中から砂浜へ続いてあるのを怪しみ、其処へお船を着けられ「面白きみつの島石部なるかも」とお言葉があった。それで御島石部神社と讃え奉った。また大神が石部山にお登りになって「此処は我が意に愛しとおもう石部の地」と言われ御剣を留め置かせられた」と刻んであります(出雲大社教官長の名により記された銘碑)。

B石井神社遷座年記略伝より…………建速須佐之男命の曾孫、大国主之命が頚城(居多)よりこの里に移りたもうて海面の孤島(佐渡)を平治せんと欲し給えど船を造る巨木の無いのを憂いられ宮居近き石井の水を大地に注ぎ給いしに、不思議にも一夜のうちに12株大樹が忽然と生えた。其の霊樹で船を造りて島へお渡りになった。その時大小の魚族がお船を佐け護り、無事にお渡し申したので、その孤島をタスケワタシ(佐渡)の島と云いまた、鱈をスケトウと云う。佐渡を平定し去られるに臨み、この地・かの島を往来するには良き処である、航海の船を保護せんと云々。12株の石井の辺りに宮造りし海上鎮護の大神と崇め奉る。其の旧地は井之鼻の十二林山と伝えれれている。

C式社考証より…………出雲崎の十二神は延喜式三島郡石井神社なり。旧井之鼻にありて出雲大神を祀る。和銅四年現況に移すと云えり。しかし地理を察するに古の三島郡の地にはあらず。井之鼻と云うに付けて石井神社に引当、石井町の名も命ぜられしならん……。と「大日本地名辞書」に吉田博士が述べられています。いずれにせよ、幾多の神話伝説が、かくまで整然と系統だって残っている以上、我が出雲崎の地が神代遠く開発されたことだけは疑う余地がないのであります。私は恍惚として、三千年の遠い遠い昔
を夢見て、その光景をさまざまと頭の中に描いて見ました。多居(頚城)の浜から繰り出した出雲の神人が直江津、犀潟、柿崎、鉢崎と人家の無い海岸の波打ち際を進んで、米山三里の峠越しに、
鵜川、剣野から曽地へ迂回して、二田方面から石地の浜に出ます。そこへ船手の一隊が海岸近くを漕ぎ寄せて軍隊と合流し、わが出雲崎の港から佐渡が島船へ出する、何ともいえぬ伸びやかな風景ではありませんか。神話で有りますから一夜の内に十二株の大樹が忽然と生えたと、いひますが其れは佐渡へ渡るべき巨大な材木を海岸近い井之鼻山で発見して切り出したものであらうと思われます。
 出雲で化石になって残っている須佐之男命のお乗りになった天之磐船や、熊野の諸手船などから考えて、佐渡への渡海のお船も丸木舟から独木(ウツロ)船で、余程巨大な材木を選んで軍兵を乗せるやうに刳ったものでありませう。十二隻の船を造るにはかなりの月日を掛けたでせう。大国主之命越後征伐年月日、おそらく居多(頚城)に次いで出雲崎が長かった御滞留地として、そこに何らかの神事が残っているのではありますまいか。
 「此地、渡海の要津なり。吾能く航路を保護せんといい給ひし…」から見ても、出雲民族の高志民族政略の根拠地として、天然に半成せる港湾がいかに出雲の神人をして喜んで利用せしめ、これに記念すべき故郷の名を留めしめたものと思われるのであります。
 然るに世は刻々と進み、大国主之命は経営の国土を天孫に奉還し出雲杵築の地へご隠退になりました。しかし皇意遠く及ばず、高志民族は依然として服せぬので、神武天皇の御東征あり、大和橿原に皇居をご造営あるや、天照大神の皇孫、天之香具山命を征討使として、越の国へおくだしになりました。
 彼は部下の物部之命と神船を二手に分かち、間瀬の浦浜へ上陸し、弥彦・国上を本塁として、浦浜、寺泊を海上発展の要衝とし、中越以東の開拓に腐心せられ不逞の輩、高志族を掃討し、越後の地に高千穂民族創業の偉業をお挙げになりました。
 別手の神将、物部之命は我が尼瀬の港へ御上陸になって、上越方面に向け征討になったと云うことです。
 二田物部神社日記というものが「温古の栞」19篇に載っています。物部之命が天の磐船の御着所を天瀬といい、今、
(尼瀬)と云う。
香具山之命のご停船の地もまた天瀬と云い、いま、
(間瀬)という。
物部之命は神宮所を定め日向の方へ向かひ、皇孫の天地無窮を臨み給う所をいま、いま
(勝見)と云う。且見(カツミ)と云うは復見(マタミ)る意である。香具山之命の方も今訛って(野積)と云う里名である。
 物部之命の鎮座地を常磐堅盤に栄えまさんことを祈って、磐地と云う今訛って
(石地)と云う駅地である。
 香具山之命もまた然り。今訛って
(石瀬)と云う。
共に遷宮の地である。物部之命は且見(カツミ)より磐地へ遷宮の後宮殿が廃止になった。時の人呼んで社崩れと畏怖。今訛って
(蛇崩れ)と云う地である。
以上を以って神代に関する出雲崎の記事は大略述べました。
 
 次に尼瀬の名称で、関甲子次郎氏は、東鑑に余戸(アマルベ)の庄がある。余戸と云うは「令義解」に凡そ五十戸を以って里となし、長を置く等、尼瀬は出雲崎の余戸で、余戸が訛って
(尼瀬)と転化したのではないかと云われている。
 又、
「尼瀬諏訪神社縁起上申書」には、往昔西の越と唱え候由の処、八島壇ノ浦、文治の末頃、奥州信夫郡丸山の城主、佐藤庄司が妻音羽の前が、其の子嗣信、忠信の別れを悲しみ、せめて討ち死の後にても見ばやとあこがれ出で、寺泊浦に辿り着たり子供の追善をなし。それより当所に来たり善勝寺釈迦堂に居住し、尼となれり。よって(尼瀬)と称し侍る由と幕府へ上申してあります。
 出雲崎では(大国主之命)。尼瀬ではその御子(建御名方命)を祀って村社として崇め祀る以上、私達の祖先が出雲民族として遠い遠い大昔に高志族を征服して、この地を越後の首府となし、更に徳川三百年間は、越後の政治産業の中心地として活躍したことは私どもの誇りであります。
       (以上出雲崎編年史稿第一巻一)