ヨミジガエリ(冥路帰り)
おらちの親父は達者な人だったが、55歳の春から大患いして、方々の医者に掛かったが、さっぱりいい目がつかず、だんだん弱るばっかりで、盆前になるとすっかり痩せて骨と皮ばっかりに、生きているだけになってしもうた。
その日の夕飯を終わり、皆が親父の枕もとに集まって、やつれた顔を見たり、苦しげな息出し(呼吸)を案じていたが、誰一人、親父が助かるとは思っていなかった。一刻ほど経つと、息が急に細りだしたかと思うと次第に絶え、ガクンと首を投げてしもうた。
「つぁーつぁ、つぁーつぁ」と皆が大声で呼んでも、もうなんの「あいこたえ(返事)」もねえ、顔色もだんだん青白く変り、手足の先も冷たくなりかける、「ああ、とうとうおしまいだ。」と唇に死に水を付けるやら、枕もとに机を置き灯明と線香をつけ、鉦を鳴らしてお念仏を唱えるなど、大騒ぎ。
部屋の片付け寺や親族の告げなど相談し始めているうちに、枕もとに居た妹が大声で「つぁーつぁが目開けた」と叫んだ。
たまげた皆が駆け寄って見ると、なんと死んだはずの親父が少し目を開け、フーと息を吹き返し始めたではねえか「つぁーつぁが生き返った。」と皆が二度たまげてしもうた。
翌日になると親父は不思議に少し元気づいてポツポツと話し出した。「俺は、よんべな、たった一人で三途の川淵まで行った。広い川で真ん中に道があった。そこえ行くと向こう岸で地蔵様が立っていらして、『お前はまだ来るがんでねえ』と手を振っていられた。
そうするうちに、後ろの方で『つぁーつぁ、つぁーつぁ』と呼ばっている大声が耳に入った。
俺はまだ、あっちへいがんねえのかと目が覚めた。」それから親父は日増しに善くなって一月も経つと床から離れるようになって、その後は大した患いもせず、80の歳まで長生きしたんがのう。
(道山 権藤三次郎)より
キツネつき
これは私の隣の部落の話しである。そこの家は屋敷神として、京都の伏見稲荷を勧請して、裏山に祠や赤い鳥居なども建て、日頃信仰も厚かった。その家の長男は子供のときから出来が良く、高等小学校も優秀な成績で卒業し家人は勿論、周囲からもその将来を期待されていた。満20歳になってたまたま徴兵検査の際、甲種合格に成らなかった。 当時は男として合格して徴兵されることが、本人はもとより家門の名誉とされていた。このことが原因らしく、以後は、性格も一変し一室に閉じこもり、その挙動もキョトキョトして、落ち着かず、時にはキツネの様な素振りや、鳴き声も真似るようになった。
昼は、蔵の中に閉じこもり、夜になるとなにやら、訳の分からぬ言葉を口走り、付近を騒ぎまくると云う振る舞いで、誰言うとなく、あれはキツネが付いたのだ、キツネつきだと噂された。家人も心配し、キツネを落とすため、方々の占い師や行者などを頼み、お祓いや祈祷など手を尽くしたが、結局元に復す事無く、数年後この世を去った。キツネつきの話が出ると、この薄幸な青年のことが思い出される。
(乙茂 渡邉一三)より
ミサシビキ(仏口「ほとけぐち」)
西越地区の旧八手の村々では、肉親が亡くなって百か日経つと「ミサシビキ」といって、巫女さんを頼み、死者の霊を呼び出して聞くという風習が禅・真言宗の家などによくあった。しかも戦前まで続いたようである。
西山町の石地に、盲目の年老いた巫女がて、その巫女から呼び出してもらった。西越地区稲川の弁天様の老母も、仏を呼び出してくれた。
巫女は白装束で幣束(へいそく)を振り、お経を読んだり神様の名を呼んだりしているうちに、身体をブルブル震わせ、神がかりの状態になると死霊がのりうつり、語り始める。
「ヤレ、メズラシヤ、ナツカシヤ、ヨクゾ、アイニキテクレタ。モットナガイキシタカッタドモ、寿命ナレバアキラメテクレ、オレハ、イマ、ホカノホトケト、イッショニ、花ノ浄土ニオルカラ、アンジテクレルナ。」などと細い声で語る。
何か仏に聞くことがあれば、それにも応える。やがて、「オレハ、モウ、ホトケノトコロヘ、カイラネバナラヌ、ウチノコトハ、クサバノカゲデ、マモッテイルカラ、シンパイスルナ。サラバ、サラバ。」というと霊は巫女から離れるといった具合である。この(仏口)を聞くと、遺族の人たちは悲しいやら懐かしいやらで、涙が止まらなかったという。
@海の底といっても、山あり、谷あり、いろいろである。海の谷と云う所を「マガリカネ」とか「カマブチ」といって、魔所とされていた。ある時、息の長い磯見衆の一人が、魚や貝を取ろうとして此処に潜ったら、暗い海底に白い着物や褌一本の亡者達がいて、磯見の足を引っぱり込もうとするので、ようやく逃げて浮かび上がったそうである。
A荒れて船の出ない晩に、沖合いに青白い怪火を見ることがある。浜の人達は、「もうれい(亡霊)の火だと言っている。海難の人達の魂が、まだ浮かばれず、こうして時折現れるのだと云う。もうれいの火は、着物や手拭で、透かして見ると見えないといわれた。
Bある時、町外れの浜に、一艘の無人船が流れ着いた。付近の人達が浜に引き揚げたが、船の中には何一つ残っていなかった。夜、そこを通ると、船の中で二、三人が何やらヒソヒソと話し声が聞えるので、近寄ってみると誰も居ない。これは、遭難した亡霊が浮かばれず、家族や知人を呼んでいるのだといわれた。
Cある嵐の晩、浜の近くの或るお寺に頭からびしょ濡れで、雫を垂らしながら五人の男が頼ってきた。住職と寺男が早速囲炉裏に火を焚き、世話をしてやろうとしたら、男達は先ず、仏様をお参りさせて貰うと言って、そのまま本堂に行った。鐘の音がしたが、何時までも来ないので住職が行って見ると、さっきの男達は影も形もなく消えて、本堂の濡れた畳の上に、なにがしの金だけ置いてあった。海の亡者が寺を頼って、せめて一巻の供養のお経を上げて貰う為に来たのだと云う。
D船幽霊は漁をしている船の側まで来て「桶を貸せ」「柄杓を貸せ」と、せがむ。その時桶や柄杓を貸したら大変。幽霊はどんどん船の中に水を掻い込み、船を傾けて、乗っている人を海に引きずりこんでしまう。沖で船幽霊に会ったら、桶や柄杓の底を抜いて貸すと、その難から逃れると云われ、漁師達はことさら船幽霊を、恐れたものである。
E冬の海の荒れる夜、亡霊は陸の灯を恋しがって海から上がり、浜の小路を彷徨いながら町に上がって来て、それぞれの家の軒に立つという。自分の家の入り口に佇んでも、もうこの世の人で無いので、入れるはずもなく、仕方なくお寺を頼っていく。
或る寺の住職の話によると、「俺は八人の子供を置いて死んだが、行く処にも行かれない。女房が可哀想だがどうにもならない。家が貧乏なので、お経もろくに上げてもらえず。こうして、さまよっている。」と男泣きに口説いた亡霊も有ったと云う。貧しい生活の中、妻や子に思いを残し遭難した悲しい亡者であろう。
Fおんぼや(火葬場)、墓場、尼瀬の獄門跡には、未だに行きどこの無い幽霊や人魂(火玉)を見たという話が沢山残っている。
(井鼻 阿部五郎)より
ももこ
「ねら、晩方になったすけ、はよう、家へ帰えれいやぁ、暗ろうなると『ももこ』がくるぞ」。
子供達が、夕方になっても遊びほうけて、中々家へ帰らない。こんな時この言葉を耳にした記憶は、年輩の人達に残っているこでしょう。言っている親も、聞いている子供達にとっても「ももこ」とは、何のことであるか分からない。
お化けでもない、鬼でも天狗でもない。しかし、この言葉に何故か異様の怖さを感じて、この呼び声を聞くと一斉に子供達は家に入り、夕御飯が始まったものである。
「ももこ」とは、いったい何のことであろうか?。古老に聞いても答えてくれない。『北越史料出雲崎』にも此れを取上げて、(蒙古の転化?)と書いている。
それにしても七百年余り前の蒙古襲来の惨劇が、遠い九州からこの地へ、どうして語り継がれたのであろうか。
青森県の津軽地方にも、同じように子供をさとす言葉として、残っていると云われているが、やはり正体不明の怪異を指しているらしい。今になると、なんとも妙な、懐かしい言葉である。
(井鼻 阿部五郎)より
雪なめ
雪の夜などに、子供達があまり云う事を聞かないと「雪なめ」が来るぞ、とおどかされた。
雪なめとは、雪国特有の冬の怪異である。民話の中では、雪女・雪女郎・かねっこり娘などとなって登場する。
雪なめに会うと、体が凍みて死んでしまう。雪の夜道に雪女郎に出会うと道を迷って行き倒れになってしまう。ヒュー、ヒューと鳴る吹雪の夜は、よく雪なめが出るなど、親達から聞かされると子供達は全身真っ白な雪女が目に見えてきて、やはり怖かった。
缶ころがし
はぁて、俺が24か25歳のときのことだったなあ。羽黒町の親類で用事が遅くなり、夕飯や酒をご馳走になった。泊って行けと云われたが、石地町にどうしても足さねばならぬ用事がある。
夜の11時過ぎに家を出て、尼瀬の先の蛇崩れの坂を登って行った。人一人通らない時刻、時々雲間から半月もさすので、提灯もつけていなかった。
坂の半ばころまで来た頃である。カラン、コロンと石油缶が転がる音がするではないか。ふと後ろを振向くと、なんと、石油缶(一斗缶)が一つ、二つ、三つ、いや後ろから幾つとも知れない缶が、俺を追いかける様に坂を登ってくるでねえか。真夜中、波の音だけの中にカラン、コロン、と石油缶の音が響いて来る。
その頃は、俺も血気盛んな頃だった。おまけに、一杯機嫌で怖いものなんかねえ筈だが、この何十個とも知れぬ「かんころがし」の響きには、背中に水を掛けられたようにゾーッとして足がガタガタ震え、立ち止まることもしばしばだった。
やっと坂の上まで登ると、もう後も見る勇気もなく夢中で走り出した。どうして来たもんか、勝見の稲荷様の前まで来るとやっと正気づいた。幸い勝見にも知り合いが有ったので、夜中も構わず戸を叩いて起こし、泊めてもろうて、やっと冷や汗を拭うたという始末さ。
俺も若いときから怖いもん知らずで、夜道で火葬場や墓地の前を通ったり、古寺や神社で野宿しても平気だったが、あんげえにおっかなかったことは、今でも忘れなえてばぁ。
(道山 内藤喜作)より
蛇崩れの坂の下は昔の獄門場(処刑場)で、どのくらいの罪人達が処刑されたか明らかでないが、これらの多くの霊が成仏ならずに、時折往還の人々に向かって、こんな具合に出てくるのだと、古くから伝えられていた。この話も尼瀬油田の盛りを過ぎた明治35、36年頃でなかろうか。
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