芝峠の地蔵さまと龍灯
その昔、道山部落の切り通しより峰伝いに、芝峠を経て、宮本・関原方面へ通ずる道があって、出雲崎の町から鮮魚や日曜雑貨が、人の背や馬で運ばれることが多く、とても賑ったと云う。
この芝峠の頂上に大きな塚があって、何時の頃からか、一体の地蔵様が祭られていた。この地蔵様は大変霊験あらたかで、通行の人々は勿論、村人の信仰が厚かった。此処から西の日本海を望むと、ちょうど椎谷の岬が一望される。
むかし昔の事であろう。椎谷の沖合い遥か海中に、龍宮城があって、乙姫様が住んでおられた。この乙姫様が、あるとき難病に罹られ、名医、良薬の全てを集めて治療されたが、一向に回復せず、だんだん悪くなるばかりであった。
ある夜、乙姫様の夢枕に神農さまと思われる仙人が立たれ、椎谷の岬から望まれる芝峠の峰のお地蔵様に祈願を込めるなら、必ず治るであろうと告げられた。
乙姫様はこの夢を信じ、一心に地蔵様に願掛けをされたところ、不思議に、さすがの重病も三七、21日の満願までにすっかり本復された。
乙姫様はこのお礼に毎年九月十五日の夜半には、遥々龍宮城から「龍灯」を献じられた。この夜半に椎谷の沖合いから、一つ、二つ、三つと十五個の龍灯が、芝峠の峰に上がって美しくまた神々しかったと、永く語り継がれてきた。
いつの頃からか、この往還道も次第に廃れて通行する人も無くなった。村人達は、この地蔵様だけあの山上に残しておくのは、あまりにもモッタイナイと、切り通しの馬頭観音の傍らにお移り申した。すると不思議にも、これ以降は、九月十五日の龍灯の上がることが、全く途絶えてしまったと、伝えられている。
上人松
国道352号線の中永トンネル西口から右へ、西山林道を登って行くと、大釜谷と蓮花寺(三島町)の境の峰に「上人松」の巨木が、今は枯れて侘しく立っている。
その昔、遊行上人が吉水の教念寺から連花寺方面へ巡錫の折、馬に乗り大釜谷部落を通り「馬の背」という急坂を登られ、ようやく峰越えとなった。その時、上人が、口取りの馬子や供人たちに、「いま馬の子が鳴いているが、その声が聞えるか、そうか、聞えないかなあ、この馬は腹に子を持っている。今その子が水を呑みたいと鳴いているのだ。水を汲んできてくれ。」と云われた。
馬子も供人たちも、こんな山の上では、なんとも致し方ない。しいて水を汲むには、遥か麓まで戻らねばならない。と困った様子が見えた。すると上人は「ああ、よしよし、いま水を出してやる。」と言いながら持っておられた杖の先で積もり積もった落ち葉をかき分けると、不思議にも其処から、こんこんと清水が湧き出したという。
村人は、上人の徳に感嘆して、その泉を「上人井戸」と呼んで後世まで、その余沢を受けていた。そのとき、この峰に上人が手植えされた松が「上人松」と名付けられた。以来数百年、通行の人々や村人達から敬い仰がれてきたが、十数年前、樹齢尽きてか枯れてしまい、今は幹だけが残り、昔を物語っている。
小木ノ城の落城
いつの頃か、おそらく四、五百年位前のことであろう。そのころ西古志郡を中心に中越の北部一帯を支配して威勢並ぶものがなかった、小木の城主も、時の流れに抗しがたく、ついには、敵軍に包囲され、支城であった鳥越城(三島町鳥越)、新城(稲川・中山)、トヤガ峰の砦(船橋)、ヤナクネ城(藤巻・沢田)など、次々と敵方の手に落ち、いまや本城である小木ノ城に篭城を余儀なくされ、やがて最後の決戦を待つ悲運に立ち至った。
城主以下家臣は、武勇の士ばかりで、たびたびにわたる敵軍の攻撃や降伏の勧告を退けて、頑強に交戦すること数ヶ月に及び、寄せ手を悩ませた。
元来この城は、自然の要害の地であり、既にこの日あるを予期し、兵量武器など充分に準備しこれに当っていたので、落城は何時とも知れず、敵軍はほとほと攻めあぐんだ。
或る日、寄せての大将が、遥かに小木ノ城を眺め、如何にしたら一日も早く攻め落とすことができるかと思案にふけっていた。
その時、この峠道を一人の尼僧が通りかかった。せめてこの付近の地理や情報に詳しいかと思って、その大将は懇ろに、この尼に小木ノ城のことを問い掛けた。するとこの尼の密かに曰く「小木ノ城は屈指の名城で、とても武力だけでは、攻め落とすことは難しい。ただ、あの城中には水が無い。中腹にある水口を断つ以外は無い。」
と、寄せ手の大将は早速この尼の言葉を受け入れて、尼から教えられた道山の切り通しの水源を夜にまぎれて奪取を計った。勿論城兵の警備はあったが、度重なる多勢の突撃によって、遂にこの城の命とも云うべき水源地をようやく手に収めることが出来た。
こうなるとさすがの堅城も、大事な飲料水を断たれ、正に風前のともし火である。城方も敵方の目を欺くために、城中になお水の豊富さを示し、白米で馬を洗うなどの手段を用いたが、寄せ手に通ぜず、やがて落城。
城主一族、家臣ことごとく、城に火を放って自刃という悲劇に至ったといわれている。この城の北東面の谷を、城の奥方の自害にちなみ「北の谷」、城主最後の東面の地を「殿入り」、家臣自刃の東北の谷を「勇士ヶ谷(現在の吉ヶ谷)」と呼んでいる。
小木ノ城の財宝
昔、小木ノ城の落城の際に、蓄えられていた多くの財宝を、むざむざ敵方に渡さぬ為に、城の周辺に数多くの偽の宝塚を造って此れを欺き、宝は人知れぬ箇所に密かに埋蔵されたと伝えられている。
この埋蔵の場所は近くでは絶対に判らず、遠く出雲崎の沖へ出て晴れた日に眺めると、遥か小木ノ城の森の中に、一株の「蘇枋(すおう)」の大木が見え、財宝はその根元に深く埋めてあるといわれていた。
昔から、この宝探しに海に出て眺めると、たしか、それと思われる木が見出されるが、この城跡に登ってその場所を探しても、「蘇枋(すおう)」の木はどうしても発見することが出来ず、今もこの城の財宝は、全く謎に包まれたままである。草生水(くそうず)の山田家の古文書の中にも、この「宝塚発掘」にかかわるものがある。
出ずが沢の怪異
小木ノ城の東北の沢一帯を「吉ヶ谷(古くは勇士ヶ谷)」と呼んでいる。この沢はたいして深くはないが、古来「出ずか沢」と云って、一度迷い込むと、容易に出ることが出来ないので「魔所」とも言われ、不案内の者が、この奥の沢に入ることを禁じてあった。
昔はこの沢も谷間は萱や葦などがボウボウと生え茂り、周囲は原生林の如く巨樹が欝蒼と茂り昼なお、暗いほどであったという。ここは、山の中腹を、蓮花寺部落(三島町)に通ずる山道があるが、急坂・曲折が多くて、俗に「七曲がり」といわれている。
春の山菜採り、秋の栗拾い、山の芋掘りなどに、ともすれば踏み迷ってこの沢の奥に入ると、いつか精神朦朧とした状態となり、しかも辺り一面濃霧のようなものが立ち込めて、動くことも出来ず、遂には次第に眠りに誘われて全く前後不覚になってしまう。
このとき、微かに耳元に聞える音は、鬨の声や、矢叫び・陣鐘、軍馬のいななきや大勢の兵士の声である。
やがて気付いてみると、沢の入り口の道の傍らに横たわっている自分の姿に驚くが、こうした幻覚にしばらくは悩まされたという。
言い伝えには、この沢の奥に、遠い昔、小木ノ城落城の際に、無念の討ち死にをした将兵や自害した家族の怨霊が今に消え去る事無く、この地に彷徨い、しかも俗人の踏み入ることを嫌って、時々このような怪異が有ると云われている。
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