ふる里の歴史散歩道(1)
勝見稲荷堂(勝見 稲荷堂前)
守神は高さ75センチ、称檀木像坐体で源九郎稲荷咤枳尼尊と呼ばれ、源義経の兜の守護神を本尊として建立されたとの伝説がある。この他にも源義経の北の方が蛇崩れで悪蛇を降伏させたとか、静御前がこの地に留まり源九郎稲荷咤枳尼尊を遷し奉ったとか、様々に言い伝えられ古くから多くの信仰を集めている。
 また、晩年の良寛さんが詠まれた次の詩は法持寺を詠んだものではないかと云われている。
  筆もたぬ 身はあわれなり杖つきて
  今朝 もみ寺の門たたきけり
尼瀬獄門跡(尼瀬の街外旧グランド前)
当町は元和二年(1616年)徳川幕府の直轄地となり代官所が置かれた。付属機関とした牢屋も作られた。ここは極刑の執行をする刑場であった。おそらく幾千もの斬首がなされたことであろう。特に重罪人の生首は浜辺の方に晒されたと伝えられている。
 供養塔は天明年間の建立であり、数体の地蔵尊と老欅の木は当時を偲ばせるものがある。地元では現在も毎年9月1日に供養祭を行っている。
代官所跡 (諏訪町旧出雲崎中学校下)
出雲崎は文明年間(約500年前)上杉家によって、佐渡征伐の拠点と海岸鎮護のため陣屋が置かれた。元和二年(1616年)に徳川幕府は出雲崎代官所を幕府直轄地(7万石)とした。以降、出雲崎は唯一佐渡からの金銀荷揚げ港として栄えるようになった代官所は町内の石井町、羽黒町、稲荷町と変遷し文化五年(1808年)にこの地に移転した。以降、明治に至るまで存続、歴代代官の中には、教育や港湾の築造に力を注ぐなど名代官がおられた。 今でも松の大木と屋敷神社が往時を物語っている。
「吉田松陰」船待ちの宿の跡(諏訪本町笠原家前にあったが今は無い)
吉田松陰が23歳の時の嘉永五年(1852年)2月25日、当町に来て翌日佐渡に渡ろうとしたが荒天のため遂に13日間も船待ちのため宿泊した旅館「塩太」の跡である。彼の東北遊日記には
  「海辺を行き出雲崎に至って宿す……十六日まさに佐渡に航せんとす雹(ひょう)舟発すべからず……
    二十七日に至り始めて舟を発するを得,延留十三日なり……。」(原文は漢字)
良寛剃髪の寺(諏訪本町四軒寺奥)
海岳山光照寺といい、曹洞宗永平寺を本山としている。上杉謙信公の母堂が参篭されたとつたえられている。
 入り口の階段右側に相馬御風の筆による「良寛禅師剃髪之寺」の石碑がある。
 良寛は幼名を「栄蔵」といい、元服して「文孝」と名乗った。安永三年18歳の時、感ずる所があって出家し当時の玄乗破了和尚により剃髪されて、ここで厳しい修行をして4年間を過ごした。22歳の時、国仙和尚に従い「良寛」と名乗り「大愚」と号して、備中(現在の岡山県)玉島円通寺に赴き更に修行した。良寛自筆の「招隠舎」の扁額がある。