孝婦由利女の碑(善勝寺境内)(尼瀬本町 四軒寺小路) |
由利は隣村の村田郷の農家の生まれである。19歳で当町尼瀬の出稼ぎ大工、作太夫の妻になったが、夫の母は中風を患って寝たきりの状態であった。夫は常に留守であり、やがて子供を二人もうけたが生活は容易ではなかった。其の中で姑に並々ならぬ孝養を尽くして13年間が過ぎた。領主の牧野侯はこれを聞き褒美として米五表を下されたうえ、幕府に上申した。徳川将軍は感心され銀20枚を賜ると共に林大学頭に、孝碑の伝記を撰文することを命じ全国に知らしめた。由利の死後白川楽翁公に碑文の題字を特筆させた全文が刻印されている。 地元では毎年9月1日に孝婦由利の慰霊祭を行っている。
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堀部安兵衛の住居跡(稲荷町養泉寺門前広橋家) |
元禄年中(1690年代)新発田藩士であった中山安兵衛は生家が没落して浪人中の19歳の頃、江戸へ出府の途中この家のところにしばらく住んで、手習い師匠をして暮らしていた。近年までその手本を蔵していた人があったという。奥の養泉寺に彼が用いていたといわれる酒盃が伝えられている。
なお、一説には俳人「摩詰庵雲鈴」の残したものとされている。
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