ふる里の歴史散歩道(5)
良寛堂(石井町良寛堂バス停前)
良寛は宝永八年(1758年)良寛堂の建つ場所にあった山本家に生まれた。現在は300坪程度の広場に良寛堂があるだけであるが、当時の屋敷はこの倍以上であったと云われている。佐藤吉太郎(耐雪)翁の尽力によって完成した。大正十一年建立式が行われている。設計者は安田靫彦画伯であり「庵室のような生粋の日本的な藤原風」を意として設計され全体としては佐渡ヶ島を背景として日本海に浮かぶ浮き堂の感じを出したものとされている。
 橘屋は古くからの名門であり、南北朝時代の正中二年(1325年)七月、日野資朝が佐渡に流罪になった時の宿舎になった。資朝は出立に際し庭の橘を見て
            忘るなよ程は波路をへだつとも   替わらず匂へ 宿のたちばな
と詠んだ短冊を残した。橘屋の屋号はこれによると言われいる、
良寛記念館(出雲崎小学校脇)
良寛生誕200年記念事業として、出雲崎の郷土史家佐藤耐雪翁の発起により、谷口吉郎博士の設計で建てられました。
生家山本家の墓地付近の眺望絶景な丘にあり、内部には良寛の遺墨、遺品御絵伝、文献等が多数展示されており、良寛を偲ぶには最適の地です。
代官所と木戸(鳴滝町木島屋(小川家)脇)
享保五年(1724年)四月、尼瀬にあった陣屋が廃止さ、長岡城主牧野氏の重臣九里孫左衛門と疋田水左衛門が、出雲崎の奉行役として羽黒町の裏山、城の腰に陣屋を置き、三島、古志、刈羽3郡の公料二万四千石を統治させた。その時、羽黒町の入り口「木島屋」の前に大きな木戸と木の門を建て、代官の替わる毎にその門に代官の名前を掲示し、通行人の往来を取り締まっていた。陣屋はこれより300メートル上手(柏崎寄り)の羽黒神社の上にあって宝暦十年までの37年間置かれたが、その後再び尼瀬に移された。
お春瞽女(ごぜ)の碑(井鼻町外)
この石碑のある国道を挟んだ海岸は現在浸食が進んできて砂浜が少なくなり道路近くまで波が打ち寄せているが、昔はここに茶屋が一軒あり、田も二反近くあったという。
 昭和22年の秋、盲目の「お春」が門づけ(人家の入り口に立って三味唄などを唄い、生計を立てる)をしながら町を歩いていた。無心に唄うお春の歌声は暗い世相に明るいほのぼのとしたものを呼び戻してくれるようであった。お春は人里離れた落水宿屋の雨が凌げるだけの宿に泊まっていたが、人柄も良く唄も上手かったので町の人気者となりかわいがられた。しかし、その年の冬は大雪で、お春は出雲崎から帰る途中、久田の先の砂山で吹雪のため倒れそのまま死んでしまったと云う。 この話を聞いた洋画家斎藤真一氏が昭和50年宿跡に「お春瞽女之碑」を建立された。碑文は作家の今東光師(当時は平泉中尊寺住職)の筆である。