ふる里の歴史散歩道(4)
出雲崎代官所跡(羽黒町石地屋(高島家)脇)
ここは戦国の上杉氏時代から陣屋が置かれた場所で、名主、橘屋(良寛さんの生家)に近く、秋田屋敷と呼ばれて大きな役割を果たしていた。
出雲崎は元和二年(1616年)徳川幕府の天領となり、町の中央に位置するこの場所が江戸時代最初の代官所となった。佐渡の金銀の荷揚げ地であり、北前船の寄港地、北国街道の宿場町として物資の交流も盛んであった。その後代官所は町並みの中では手狭なことから、寛永二年(1625年)に尼瀬稲荷町に移転した後、何回か再移転し明治を迎えている。

石井神社と橘屋(良寛の生家)(石井町、石井神社石段下)
神代の昔、各地を平治した大国主命が、この地に来られ佐渡ヶ島を平治しようとしたが、海を渡る舟が無い。そこで、石の井戸の水を汲んで撒くと一夜にして12株の大樹が茂った。その霊樹で舟を造り海を渡って平治したと伝えられており、その時、大小の魚が舟を守り助けたので12株の大樹の辺り(現在の井之鼻)に宮を造り海上守護の大神を祀った。
和銅四年に現在の地、石井町に移されて以降、神事は名主、橘屋山本家が司っていた。毎年6月17、18日の両日に行われている石井神社の大祭は元禄三年社領米をもとに橘屋山本家によって始められ、約300年続いている。神輿渡御や100軒近くの露店で、今も尚、賑わいを見せている。

おけさ源流の碑(羽黒町海岸国道402号線)
奥州丸山の領主佐藤庄司元冶の子、継信、忠信兄弟は源義経の忠臣として平家討伐に活躍した。兄継信は屋島の合戦で義経の身代わりに、弟忠信は京都で源頼朝に追われた義経を庇いそれぞれ戦死した。兄弟の母「音羽の前」はせめて戦場の後を訪ねようと奥州を旅立ち、ようやく出雲崎に辿り着いたが、先の長い旅を思い断念し大字尼瀬の釈迦堂(現在の善勝寺の前身)で尼僧となり二人の菩提を弔ったと云う。
 今に伝わる「出雲崎おけさ」は建久元年(1190年)に義経のために立派な最後を遂げた子供達の詳報を聞いた音羽の前が、嬉しさのあまり尼僧たちと袈裟法衣のまま唄い踊ったのが始まりで、「袈裟」が「けさ」、「おけさ」となり、これが「おけさ」の源流となったと伝えられている。
 この「おけさ源流の碑」は昭和55年10月27日「おけさ源流の地記念碑を建立する会」により建立されたものである。

俵小路(御用米倉庫)(羽黒町善乗寺脇の小路前)
享保五年(1724年)四月、尼瀬にあった代官所が長岡領に支配された一時期羽黒町に陣屋を置いた。この坂道は俵小路と云って陣屋の御米倉へ米俵を納めるための通路であった。中腹の平場には米蔵を置き、その上の台地に陣屋があり下道を城の腰と呼び羽黒神社がある。
 この米蔵へ米を運ぶ人夫の苦労は大変なものであった。この陣屋は宝暦十三年(1763年)九月高田城主榊原氏の支配となって、再び尼瀬に移されるまでに37年間設置されていた。
良寛の妹「みか子」の寺(羽黒町浄玄寺参道)
浄玄寺の開基は常陸の国新治郡大曽根村、相馬氏姓念にて、建立は正安二年(1301年)である。姓念は親鸞聖人に帰依して弟子となり第十一世玄嶺の時に出雲崎に移住している。(寛文年間)当時は長生院智現上人を出し、その妻として良寛の妹「みか子」を迎えた。みか子は橘屋以南の三女に生まれ歌人としても名高く700首にも及ぶ歌集を残し、良寛と深い繋がりのあった貞心尼とも親交を温めていた。智現師没後は尼となって妙現尼と称されたが、嘉永五年(1852年)12月21日76歳の天寿を全うされた。
 良寛追慕の詩    黒染の君がたもとに摘み入れし
                               野辺の若菜も形見とぞ見る