ふる里の歴史散歩道(3)
公卿小路(岩船町たまき屋向かい側の小路)
元和元年(1681年)小倉大納言実起と、その子宰相公連卿竹内刑部大輔季伴卿の三人は佐渡へ配流となり都より木曽路を経て当町内の山城屋(客船宿)を旅館として風待ちをした。
 「古郷を出でにしよりも悲しきは
       馴れにし人の波の別れ路」 実起

と詠じて10月末日、この小路より船上に出た、地元では小路に石を敷いて崇敬したと伝えられている。

旅人宿「大崎屋」の跡(住吉町出雲崎保育園の向かい側)
元禄二年(1689年)この北陸道に奥の細道の行脚をしていた芭蕉は、ここ大崎屋に一泊したと云われている。門人の曽良は【曽良旅日記】の7月4日の記述の中に「四日快晴。風(中略)同晩、申の上刻(午後4時頃)出雲崎着。宿す。夜中、雨強降」と記している。
この夜海辺の窓を押し開けて大宇宙を観じた俳聖芭蕉は天下の名吟「荒海や佐渡によこたふ天河」の霊感を得たのである。
良寛の生家の菩提寺(住吉町円妙院参道)
良寛の生家は代々にわたり、名主役を務め「橘屋」と号し、姓は「山本」といった。ここ真言宗豊山派孤岸山(円妙院)は山本家の菩提寺である。良寛の母秀子は佐渡相川の人で、長男の良寛が26歳で岡山県玉島の円通寺で修行中、四男三女の7人の子供と夫、「以南」を残して49歳で病没し、ここに永眠した。後に良寛の弟「宥澄」が住職を務めた寺でもある。

茶屋(けんどん屋)(石井町多門寺参道脇の空き地にあったが現在は無い)
十返舎一九の著した日本道中金の草鞋の中に「山田より二里ばかり行き出雲崎と云う所にいたる此処は至って繁昌の港なり町の長さ一里余りもあるべし前は海後ろは山にて町巾至って狭し此処に宿をとりてその夜けんどん屋という茶屋へゆきて……」とある「けんどん屋」はここであり、十返舎一九が文政元年(1818年)に滞留中登楼した家である。
多門寺(石井町多門寺参道脇)
真言宗豊山派に属し出雲山と号す。神亀二年(725年)行基の開基という。永禄十一年(1568年)上杉謙信の村上本庄攻めや、天正十三年(1585年)以降、上杉景勝による佐渡平定の為の宿陣となったと伝えられている。
 天正十五年(1587年)八月十七日、景勝は住職に何か望みあらばこれに記して願い出よと白紙に自署して与えた白願書が残っている。本尊は上杉家の護佛である毘沙門天である。また順徳天皇が佐渡の配所で拝祀されたという菅公の木像が安置されている。