ふる里の歴史散歩道(2)
孝婦由利女の碑(善勝寺境内)(尼瀬本町 四軒寺小路)
由利は隣村の村田郷の農家の生まれである。19歳で当町尼瀬の出稼ぎ大工、作太夫の妻になったが、夫の母は中風を患って寝たきりの状態であった。夫は常に留守であり、やがて子供を二人もうけたが生活は容易ではなかった。其の中で姑に並々ならぬ孝養を尽くして13年間が過ぎた。領主の牧野侯はこれを聞き褒美として米五表を下されたうえ、幕府に上申した。徳川将軍は感心され銀20枚を賜ると共に林大学頭に、孝碑の伝記を撰文することを命じ全国に知らしめた。由利の死後白川楽翁公に碑文の題字を特筆させた全文が刻印されている。 地元では毎年9月1日に孝婦由利の慰霊祭を行っている。
堀部安兵衛の住居跡(稲荷町養泉寺門前広橋家)
元禄年中(1690年代)新発田藩士であった中山安兵衛は生家が没落して浪人中の19歳の頃、江戸へ出府の途中この家のところにしばらく住んで、手習い師匠をして暮らしていた。近年までその手本を蔵していた人があったという。奥の養泉寺に彼が用いていたといわれる酒盃が伝えられている。
 なお、一説には俳人「摩詰庵雲鈴」の残したものとされている。
代官所稲荷(尼瀬二区 代官所稲荷境内)
この稲荷は江戸時代には「陣屋稲荷」と称され、寛永二年(1625年)に代官所の守護神として祀られたもので、文化五年(1808年)代官所が現在地に移転した折、石鳥居、石高麗獅子等と共に移されたと云われており、社殿は港に向かって建てられている。
 現在の社殿は、明治九年(1876年)の火災で類焼した後、再建されたものである。石鳥居は天明七年(1787年)代官羽倉権九郎その他の寄進によって建立され、石高麗獅子、石段、東石垣、石水鉢と共に当時のまま残っている。
 歌碑は天保十三年(1842年)代官所元締め手代の青津等左衛門が両親追慕のために建てたものであるが、歌詞は欠落して不明である。
俳諧伝灯塚(妙福寺境内)
元禄二年(1689年)七月、出雲崎に奥の細道の杖をとめて一泊した芭蕉は「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句を残した。その後芭蕉門下二世の東華坊は二度までこの地を訪れた。三世盧元坊もまた、ここに杖を留めて感慨にふけった。出雲崎が生んだ俳人、近青庵北溟は宝暦五年(1755年)三代にわたる俳人が当地で詠んだ句を刻して俳諧伝灯塚を建てたと伝えられている。新しい石碑は大正年間に再建されたものである。
碑文  荒海や佐渡によこたふ天河  芭蕉
    雪に波の花やさそうて出雲崎  盧元坊
      五月雨の夕日や見せて出雲崎  支考
御用小路(金銀小路)(伊勢町尼瀬郵便局向かい側の小路)
慶長三年(1598年)大久保石見守は佐渡奉行として当町に駐在し佐渡鉱山の開発に努め、慶長六年には鶴子銀山に続いて相川銀山でも大量の金銀が産出された。此れはすべて塊として一箱13貫目(49キログラム)とし、百箱、二百箱と小木港より年何回となく出雲崎に陸揚げされて、此処より車馬に積み替えられ「御用」の札を立てて大名行列以上に華やかに、この小路より出発し信濃路を経て江戸幕府に上納された。