「国土交通大臣表彰」受賞式に出席して 出雲崎妻入りの街並景観推進協議会会長 渡辺常侃 第26回まちづくり月間国土交通大臣表彰式が、平成20年6月25日に東京千代田区都市センターホテルで行われ、当推進協議会が、まちづくり功労者として受賞致しました。 その功績内容は「全国的にも珍しい3.6キロメートルに連なる妻入りの街並景観の保存を目指すため、町内外へ妻入りの貴重性をアピールしながら観光を含めた『まち全体の活性化』を最終目標として、まちの緑化運動や、のれん・表札の製作・設置、街並マップの制作活動を継続的に行っおり、当地区の景観形成において大きく貢献している。」というものです。 (中略) 今回の受賞は、平成8年から、故鈴木会長を始めスタッフが精力的に街並保存や景観維持に力を注いで来られた結果であり、また行政からの力強いご支援と、この町を愛する住民の皆さんの熱心な御協力を頂き継続して事業を行ってきたことが、この賞に繋がったものと思っております。 式典終了後のシンポジウムでは、「地域が担うまちづくり・まちおこし」と題して、 【まちづくりのキーポイントとなるのは『人』であり熱心な方々が、どれだけ積極的に参画するかにより、その成功は左右される…】。と強調されておりました。 この受賞を契機に、より一層住民の皆さんと一体となって、更に充実した活動を展開しなければと強く感じました。 今後ともどうぞ宜しく御願い申し上げます。 |
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「おもしろ看板」 の紹介! おもしろ看板は、街並の景観保全と併せて街並を歩いていて楽しくなるように、また景観だけでなくいろいろな観点から街並を考えようと計画されました。 | ||
名主の家は千畳敷」 江戸時代の出雲崎町は、幕府の天領地(直轄領)となりました。そして天領代官所が設立され越後の行政の中心地として幕府の法令示達の拠点となりました。 元和二年(1616)のことです。代官はこの町を二つに分けそれぞれの町に名主を置き、蒲原、刈羽、三島、魚沼の各村々の、庄屋、村役人を支配しました。 尼瀬町と出雲崎町では、「京屋」と「橘屋」が名主となりました。この名主は、佐渡奉行の交替や、巡見使の来町の時は、本陣として巡見使や佐渡奉行の宿泊などの仕事もありました。 一般的な名主、庄屋は五十戸ほどの村々の支配者で、六万数千石を支配した出雲崎町や尼瀬町とは桁外れの差がありました。 この尼瀬町の名主「京屋」が火災で尼瀬地区が三百戸ほど焼失した記録があります。寛政十一年(1799)九月二十六日、尼瀬町の上はずれより養泉寺小路まで焼けたという文書があります。この火災文書は、萬円寺・膳勝寺・光照寺の3寺の記録で、それぞれ年号が寛政十年・十一年・十二年の記録になっています。 この時期に江戸から出雲崎へ来ていた新楽間叟(にいらかんそう)という人が江戸の友人に送った文書があります。 九月二十七日出雲崎失火、近焼三百余戸(妓楼より十町ばかり上の方也、商売廻船問屋など焼けたり)、火止まりて後の片付け竹木石の運び人足等みな女也……。云々とあり、 更に尼瀬町の名主「京屋」野口七左衛門類焼、急火なれど畳を出せし事、七百畳ほど也、残りは皆焼けたり、これにて家作の大なるを知るべし……そして年に一度づつ佐渡奉行の渡りあり、それよりほかに用無き身分なるに、家内上下七人の住居にて畳千畳もしかる家を持ちおるなり。 名主の家は、十万石の大名の屋敷ほどあり、家も庭も清潔で庭石も諸国から取り寄せ、北海道の珍しいものが多く有る事等が誌されています。 このような名主、町年寄りなどは巡見使の来た時など、本陣として使われたものですから、大きな家を作っていたわけです。出雲崎町、尼瀬町は行政区分上別々でしたが、佐渡奉行や巡見使等に使われていた家は三軒有りました、「橘屋」「敦賀屋」「京屋」が文書として残されております。この時は公式名称で出雲崎町とされております。 ★おもしろ看板「名主の家は千畳敷」設置場所は、伊勢町の桑原さん宅前です。是非ご覧下さい。 |
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「ぬたうなぎの話」 出雲崎風物詩(その二) ぬたうなぎは分類学上は円口類という一類一品種の珍動物です。表皮より多量の粘液を出すので、この呼び名がありますが、眼が退化して皮膚の下に埋没しているため”めくらうなぎ”とも呼ばれまた体側にある7対の鰓孔(えらあな)と眼孔とを合わせてヤツメ(八ツ目うなぎとは別)と呼ばれています。 山口県の萩では、ドロボウ網に掛かった他の魚の体内に入り込んで食い荒らす小田原ではわたもく、館山ではべと等その地方によって、呼び名も多岐に分かれますが食用にはあまり用いられていません。 出雲崎ではその歴史と風土に根ざした生活の知恵によりこの”ぬたうなぎ”を見事に夏の珍味として結実させました。出雲崎独自の呼び名と調理法によるこの食品はアナゴの浜焼きといいます。(注)寿司種のアナゴは別種の魚です) ★おもしろ看板「ぬたうなぎの話」設置場所は、尼瀬天領の里です。是非ご覧下さい。 |
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今年一月完成した「北国街道妻入り会館」。 場所は(出雲崎町尼瀬の稲荷神社の下) 街並み散策の拠点として、妻入りの町家の内部を見ることができる建物となっていています。 四月からは年末年始を除く毎日会館しています。そこで実際の妻入りの町家ではそれぞれの部屋がどのように使われていたかを説明しながら妻入り会館の各部屋を紹介します。 出雲崎の町家は、妻入りに限らず、「出入り口(玄関)」が街道の方から見て下手側に設けるのが普通でした。(山手の家は向かって左、海側の家は向かって右が出入り口)。これには @床の間や仏間が上手になるようにするため A上座と下座の位置関係を配慮するためなどの説があります。 また出雲崎の町には「卯建(うだつ)」がありません。よく「いつまでも出世できなくて、あまりパットしない」ことを「うだつが上がらない」と言いますが、建物の「卯建」は、火災が発生した時に、類焼を防ぐための一種の防火壁です。 あまり奥行きのない「平入り」の町家が並んでいる町場でよく見ることが出来ます。 ではなぜ出雲崎には「卯建」が作られなかったのか?それは、妻入りの町家続きで奥行きが深く隣家との境に卯建等の防火壁を作ることは、技術的、経済的に難しかったからと言われています。 その替わりに出雲崎では火災から財産を守る為に「土蔵」が多数作られました。 <妻入り>とは…… 「つま」とは端を意味し、建物では、大棟と直角な壁面、すなわち長手方向のはしの面を「妻」といいます。妻入りとは、屋根の形が山折の二面構成の町家で、屋根の端の部分(妻)を街道の方に向けて正面として、その面に入り口(玄関)があるつくりの家のことを妻入りの町家と言います。 妻入りの町家は間口が狭く奥行きのある造りとなっていますが、これは江戸時代に間口の巾を基準にして屋敷税が賦課されたので、税金軽減の為意図的に間口を狭くしたこと、または「妻入り」は古い時代に伝わり、人口が増えると、古い町並みに連続して新しい町並みを造成する必要があるため、古くからの慣習に従って間口が狭い「妻入り」の町家が増えていったなどの諸説があります。 |
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