●聞いたど! 聞いたど!
戦前軍事色一色の時代の女傑。
 大政翼賛会にて国民の思想統一がなされた。翼賛政治・選挙とで大東亜戦争に突入して行ったのでした。 「米英鬼畜」 「討ちてし止まむ」 「国民皆兵」 「本土決戦」 「欲しがりません勝つ迄は」 「富国強兵」……。
 国防婦人会、翼賛会と在郷軍人会婦人部々長、と何れもトップの博刀自がシャカリキに意思統一をはかり、狂奔統治していったとか。
 良寛堂前から幾多の戦士が、婦女子の打ち振る”日之丸の旗”で出征して行ったのか……。
後には皆、白木の箱に入っての帰還でした。
 その後を継いだ、宋美齢も永くトップにあって、戦後の混乱期、激動の時代に価値観の激変、封建制の打破、婦人参政権、男女平等の思想を激浪の中で敢然と乗り切ったそうです。
 壮絶な女丈夫二人の話。  現今はバツ一、バツ二、バツ三がスティータスの時代とか?
完全に女男不平等の時世。  少しヘンだのう…。と思うども……。  (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
古老曰く…「嘆き節」
お獅子の戻り時(帰り)の事さ。今はの、まるで”おそれん(葬式)”みてに、しょんぼりと戻って来るんだ。
唄も囃子も、なんも知らねんだすけのう。
 昔はのう、酒の勢いもあって、長岡甚句や岩室甚句や、
     ♪ デンデラ デント デッケエ カカ モロタ! 
                 ヤーハン ハンヤ   スッテン テレボコ  テンヤ
        ♪ 天屋はホンヤ! ワンヤはワンヤ!  スッテン テレツク スッテン テン  と!!
ドナリ唄を歌ってさ。 馬鹿者がイサケしたりしてさ。  賑やかだったんだろものう!   (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
ファックスが普及し始めた頃(二十年前頃)
            珍しい、何ともおかしい話……二話。

●その一、
 某氏(インテリ)より……
「兄貴の字そっくりの文が来たが、電信・電話局には、器用な書き手が居るもんだのう」 との電話有り。
●その二、
 婦人より真剣な質問有り……
「あの細かい電話線の中に…しかも遠い所から大変な速度で紙がまかれて、送られて来るものなんですねえ!」……と。

 解説と説明には手間取ったとか。小生が少年時代に東通工(現ソニー)のテープ式録音機を見聞した衝撃と何等変わりない。カルチャーショックなんですネエ!!。
                       およよよ!  おこここー。   たまげた。     (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
昔のあすび(遊び) あらかると
石場おに おにごっこあすび
釘つったて 五寸釘で腕力を磨く
ふき 肺活量増強のため
だし 大腿筋鍛錬を片足で
いっさっさ 脚力増強とバランス感
びいだま 指の運動と視力アップ
いか揚げ(タコ上げ) 工作力・工夫力養成  指と歯で、「ため」を工夫
んま跳び 跳躍力のアップ
ぱん メンコあすび
三竦み はのこと同じ
蛇・蛙・なめくじ・庄屋・鉄砲打ち・狐・戦艦・巡洋艦・駆逐艦

                      諸兄は何してあすんだがんだね?               (辰)


●聞いたど! 聞いたど!

良寛顕彰の父 ”佐藤耐雪”翁の話

 この写真は、佐藤吉太郎さん18歳(明治37年)の颯爽たる雄姿です。
 越後には、英国製自転車コースターは3台しか無かったそうです。 帽子から靴まで全て英国製で堂々たるもんですねっかね。 これで津軽の国までサイクリングしたんだとね。

 何ねせ歴史の宝庫の出雲崎だすけ、眠れる数々の石塔・石碑の発掘、発見に無我夢中になり、あっち・こっちと捜し回る毎日になったんだとね。

  また俳句は”降雨庵木甫”に師事し、そこで”会津八一”と仲良くなり、更に”高浜虚子”ともやぶちになる。後には”相馬御風” ”安田靱彦”と大の仲良しになり、交友の輪を拡げたのですね。
 「良寛顕彰の父」と人々に尊敬される若き日の話の数々を聞いたいね。

 柳あり掘りあり 杖(つえ)の止めどころ (旧新潟市役所の角に句碑がある) 
                                                   雲浦遊子

●聞いたど! 聞いたど!
「亜米利加夫人」之思ひ出
 戦前、尼瀬に一人の亜米利加夫人が居た。夫人は五、六十歳位だったろっか。訳あって一人で静かな暮らしをしていた。物静かで穏やかな人柄で子供達にも優しかった。
 「映日果」をよく貰った記憶がある。”手を洗ってから食しなさい”と注意され、汚れた手を綺麗にしてから美味しく食した事が思い出される。
 皮肉な事に近所に退役陸軍中将が住んでいて、日米戦が日増しに激しくなり、戦局が厳しい状態になってきて、町民も大東亜共栄圏思想の基、鬼畜米英という雰囲気で殺気立って来たのです。
 英霊が次々と帰還するは、食糧不足になって来るは、人身穏やかならざる状態では、もうとても居場所が無くなり、泣く泣く帰国して行ったのです。仲良しだった、かちゃん達も泣き別れをしたのです。
 何の罪も無い一般の町民だったてがね。近所のかちゃん達とも、ほんに仲良くしてたてがねさ。戦争という悲劇があったんだねえ。長いスカートとハイカラな短靴を履いていなさって、いつもニコニコと穏やかな笑顔が思い出されるいね。    (ヲハリ)

●聞いたど! 聞いたど!
良寛大書 『天地』  
 どうして良寛記念館に納まる事が出来んかったんだろうか?チャンスは世に云う「後髪は掴めらんね」
その通り!ワンチャンスを逃したんだとね。出雲崎の某家にあたっていた事は、あたってたんだろも、何たって銭(ぜに)を先に積んだもんが勝ち。
 T鉄道会社の者がアラガネを持って「なじょも、なじょも」と手を打ったとね。手順踏んで手に入れようとした時は、既に遅し。 名作は東京に行ってしもたと。はぁ〜まぁ〜イッチャポーンとサケたと。   (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
機械掘り石油井戸(一号井)「福田泉(ふくでんせん)」の名前を拝借した
挽茶銘菓 「福田泉」

 明治から大正にかけて尼瀬では”ゴールドラッシュ”と云う正に石油、掘れ掘れの時代があった。
石油成金が何人も出たとね。一攫千金だこてさね。しかし”手掘”だでね。 深くは掘れんのだが、じっきに掘り尽くす訳だ。コウモリの巣を作ってやったようなもんだこて。
 その当時、大繁盛を願って大売れに売れた菓子の名前が「福田泉(ふくでんせん)」と云うんだとね。
どんげな菓子だったんだろっか?。  その旨さを知る人も、いまや無しか……。        (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
「オガ ガンダ」
 大正八年鰯のスノ時、春一番の突然の大シケ(嵐)で大勢の漁師さんがジンド(遭難死)に行ってしもたんだとね
 働き手を亡くし、身上を亡くせば子供達は哀れ! 出雲崎を離れたと。上州のある町の尋常に転校したと。 大事な野球の球を校庭で見失い悲しい思いをしてたんだと。
 多聞寺に眠る、優しかった伯父さんから貰った球なんだと。朝礼のときに先生が「この球は、誰のだ!」と…すかさず大声で叫んだ「オガガンダ!」。全校生徒は大笑ひ。以来あだ名になってしもたと。 (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
たまげた、たまげたいや! 「十九軒もの呉服屋さん」
 十九軒も呉服屋があったんだてや。 町内に二軒・三軒とはのう。それだけ需要があったてことだ。
当時は人口が多く娘を嫁に出すときは、精一杯の事をしてやりたいのが”親心”というもんだすけのう。
 聞いて知っただけ書いたいね。(敬称略すいね)
喜楽町…ナシ  陣屋…唐沢・大森  豊洲…虎屋・坪田・山サ  伊勢町…綿八  稲荷町…津藤・津順・津又   岩船町…津清   住吉町…村越・船竜   石井町…本間・マルサン・石地屋・武子
鳴滝町…村田屋   井鼻…今井・遠藤                      (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
「ジン・ドーン」か?  「ガモモーン」か?
 亡くなる事を「ジンド」に逝くと云う説と 「ガモモン」を鳴らしたいね と云う説。 二つ有り。
大先輩曰く、葬儀の寄せ鐘の音がジン・ドーンと鳴る音!それから来ている。 一方、古老曰く、昔から誰もがガモモーンと、その音を聞くからなんだいや!と強硬。
 どうも二説あるので小生はどっちも有力で抱泥する必要なしと考へるが。諸兄姉の耳の聞き方、音の感じ方で、皆がどう聞こへたかの違いなんだすけ。 「もうじっきジンドへ行くのかと」 「へえもうじっきガモモン鳴らすこて」 いやいや、いつまでも達者でいねば!!     (辰)

●聞いたど! 聞いたど!
「ニーニカスト」は誰?指揮者?
 嘗ってベートーヴェンの交響曲「運命」は、ベルリンフィルかウイーン交響楽団で世界中の人々から絶賛されてきた。
 戦後間もなくはレコードを所持する若者は少なく、クラシック音楽に飢えていた。或る時某氏がレコードをお持ちと聞いて、早速にお願いして若者たちはレコード・コンサートを開催した。
 Aさん得意気にこれより鳴らすと始まった。しかし何時まで経っても有名な出だし「ジャジャジャ・ジャーン」が聞こえず「ポロポロポーン」とピアノソロ。「?」「?」「?」………どうしたァ、どうしたの?。
 止めて彼曰く、「これはニーニカストの皇帝だったいね」と。戦前はレコードも右から読むのと、ピアノ協奏曲の第九番だったんだ、とね。皆勉強になったと。  ……トスカニーニ……
                                                 雲浦遊子

 聞いたど! 聞いたど!
日本石油会社の商標「こうもり(蝙蝠)印」のいわれ

明治21年2月20日のゆんべ、関係者の慰労と新会社誕生の前途を祝って、長岡の敦賀屋でイッパイやったとね。
 そん時そこへさ風雪だてがね、こうもりが一羽飛んで来たと蝠と福は同音だ。内藤久寛さんは「いい、いいあんべだ、こりゃいい。蝙蝠印にしよてさね!」一同拍手一決となったんだとさ。
 ところが、どうも出来すぎた話げの様で?本当の事言うと、久寛さんは、それまで調査・情報収集・設立準備等で尼瀬で寝泊りしていた際に、沢山ある石油井戸、特に出んなかった井戸に蝙蝠がヤタラと住み着いて晩んげになると家の中に入ってくるやらサワギだったんだとね。
 亡祖母から聞いていたので、確認のため先日、”ヤソハチ”のかちゃんからも聞いて確証発表しますこてね、初手から久寛さんは、蝙蝠印を決めていなさっただいネ。本当にホント!。イッチャポーンヤ。