「ふる里の語り部」が畏敬の念を抱き、永い年月に渡り、語り継いで来た故郷の語り草の数々。それは文化遺産にも匹敵する価値あるものではないでしょうか。
  夢か幻か?、伝承、伝説として摩訶不思議な物語が沢山残されています。海山の自然現象の変化が、情報入手の困難だった昔には興味津々だったのでしょう。聞いてみたいという子供達の好奇心をくすぐる物語として、これからも語り継がれる事でしょう……。

●海の伝説

蛇崩れの玉
 勝見の崖が、物凄い音をたてて崩れた。崩れてそれが海の中に落ち、そして崖の中に永い事住んでいた大蛇が海に入ったという。
 村に五左衛門という年寄りがいて、或る日のこと浜に出て見ると、遥か沖のほうで何やら光るものがある。五左衛門は不思議に思った。もし海の主となった蛇の放つ光ではあるまいか、とも考えて見た。しかもそれが毎晩の事である。 五左衛門は村の若い元気のよい者四〜五人を頼んで舟を出し、海の底を探ってみた。すると鏡のような光を放つものがある。何だろうと恐る恐る近寄って見るとそれは一つの白い石であった。若者がそれを手にして舟に上がった。
 陸に上がっても石の光には、何ら変りがなかった。世にも稀なものを得たと五左衛門は喜び勇んだ。夜になると、五左衛門の家は月のごとく輝き、眩さは目がくらむほどであったという。
 そのことが、やがて地頭の耳に入り、是非と所望された。泣く子と地頭には勝てぬのが当時の世の中。仕方無しに宝の石を使いの者に渡した。
 その後、数年たって地頭はその石を五左衛門に返してきた。そのときには、もう石には光も艶も無かった。
この石は大蛇の魂といわれたが、あまり長い間、人間の手元に置いたため、その光を失ったもので有ろうといわれている。勝見の山崩れのあったところは、今も「蛇崩れ」と呼んでいる。
      
海に消えた鐘
 出雲崎の良寛記念館(虎岸ヶ丘)の側に、二子山と呼ばれる切り立った小山がある。月の美しい夜、この山に登ると、今も海の向こうから美しい鐘の音が響いてくると伝えられている。
 それは何時の頃のことか、三里四方に聞える鐘を造った者には、褒美を取らせるという殿様のおふれが出た。出雲崎の鐘造りの名人は、直江津に名人が居ると聞いて、その鐘の音色を聞きに出かけた。その途中、直江津まで三里のところに休んでいると、遥か彼方から鐘の音が聞えてきた。
 「この鐘だ、この鐘なら、わしは負けない。」出雲崎の名人はそうつぶやいて立ち上がった。せっかく此処まで来たのだからと、直江津の鐘造りの家を訪ねてみることにした。
直江津に着くと、鐘造りの家はすぐ見つかった。みすぼらしい大変なあばら家であった。そして玄関口に佇むと、中から何やら話し声が聞える。
 「私のことなら決して心配しないよう、お前は立派な鐘を造っておくれ。聞けば、出雲崎にはたいした鐘造りの名人が居るとのこと。その人に負けないようしっかり頼みますよ。」
 仕事場の片隅に敷かれた筵の上で病気の母をいたわる孝行な息子の姿に、出雲崎の鐘造りの名人は、ついに熱い涙がこぼれ落ちた。
 出雲崎に帰ってきた鐘造りは、その夕暮れ、何を考えたか、弟子達に言いつけて、舟の上に櫓を組んで鐘を吊るすと、月の出を待って沖へ漕ぎ出して行った。
 やがて一里ほど行ったところで、鐘が突かれた。二子山の上で弟子達が振る松明(たいまつ)の火が左右に揺れて二里、三里、美しい鐘の音色が静かな海の上を流れた。
 そして、夜が明けても、その鐘の音が聞えたという。だが、それっきり舟は帰らなかったといわれる。
                    
●大蛇伝説

寂の毒蛇
 上中条部落に「寂」という所がある。ずっと昔、この辺のまだ開けない頃、そこは山々に囲まれ、すぐ後ろには日本海が広がり、住む家も少なかった。
 この沢に大きな池があって、その池には恐ろしい毒蛇が住んでいた。ちょうど霧のような毒気を吐き、人々がその毒気に触れると、急に病気になったり、重い者は命が無かった。こうして村では、幾人かの人々が死んで行ったといわれ、村人達は、毎日安心して働くことが出来なかった。
 或る日のこと、この村へどこからともなく行脚してきた一人の僧があった。うすぎたない衣を着て、編み笠をかむり、脚絆(きゃはん)、草鞋(わらじ)という姿であった。
 旅の僧は、この不幸な話を聞き、何とか村人の恐怖を救ってやろうといって、うやうやしく刀をとり、一心込めて聖観世音菩薩の像を刻んだ。
 そして出来上がった尊像を前に心静かに読経し毒蛇調伏の祈祷をした。この声は毒蛇の住む池の隅々まで響き渡った。やがて読経が終わると、不思議にも今まであたりに立ち込めていた霧のような毒気がはれ、毒蛇の姿はどこにも見られなくなったという。
 こうして旅僧の法力により、この池に居ることの出来なくなった大蛇は、尼瀬町の南端の丘にしばらく休み、出立の際に付近の山野を崩したので、この池を「蛇崩れ」といった。ここから信州の野尻の池に行き、その主になろうとしたが、たまたまこの池には、既に主として他の大蛇がいたので、此れと争ったが力及ばず、ついに戸隠山に入って、後に、九頭龍権現として祭られたと伝えられている。
 ちなみに、この旅僧は行基菩薩と伝えられ、この聖観世音像は、いまも慈眼寺に安置され、諸人の祈願に、霊験あらたかと云われている。

池田の大蛇と椿の森
 市野坪部落の奥、県道に沿って刈羽郡近くに、池田という所がある。昔この沢一帯が大きな池であったが、次第に開拓され、今は形ばかりの池となっている。
 この池は天然の凹地で、別に人工的に土手を築いた形跡もない。昔この地に大蛇が住んでいて、あるとき熊の森(西蒲原島上村)の池の主の大蛇に縁談を申し込んだが、熊の森の大蛇は、あんな小さな池へ娘をやることはならんと断わった。池田の主は大いに腹を立て、よし、それなら熊の森の池を埋めてやろうと、小木の城の南側の土を掘って、うんと背負いこんで出かけた。
 さて、荷が重すぎたのか道がはかどらない。夜の明けないうちにと急いだが、村田(和島村)の辺りで早起きの家があって、鍋のすみ(煤)をとっていた。その物音に驚いた大蛇は、もう夜が明けたかと、慌てて走り出したので、背負っていた土の大きな塊を落としていった。それが椿の森である。
 熊の森まで行くまでに所どころに土をおとしたものか、今でも平坦な田んぼの中に小山のように点々と残っている。椿の森は、小木ノ城と同じように、ケヤキの大木と椿が生え茂り、お祭りしてある熊野神社までも、同じなのは、この為だと云われている。

話頭池(わたち)の大蛇
 大門の正応寺の裏山を越えると、沢一帯、凡そ三反歩(30アール)もある大きな池が満々と水をたたえている。一般に「話頭池(わたち)」と呼んでおり、大門・沢田の耕地の用水としてその利用は広い。
 この地の一方は、人口の堤防によって限られているが、地の底は深く、昔から大きな鯉や亀などが沢山住んでいた。この辺りの耕地がまだ開拓されない時代は、もっと広大な自然な沼であった。
 その頃、この池に大蛇が住んでいて、時々村人に災いをなすので、正応寺におられた大覚禅師は、一晩この池の岸に座禅して、池の主の大蛇に、一くだりの話頭「悟りの偈(げ)」を授けられた。すると、池の傍らに一人の老女が現れ禅師の法力によって、ようやく苦患から逃れることが出来た。
 以後、村人に災いを与えることは絶対しないと誓った。ついては解脱のお礼の印にと、差し出したものを見れば「花瓶」と「龍神の金印」であったと云われる。
 正応寺では、この二つを寺宝として秘蔵していたが、花瓶はいつのまにか紛失し、金印は今も残っているという。金印は一寸角くらいで「龍王印」または「閻魔版」ともいわれ、海上安全の護符として押してもらっていく者が多かったとのことである。

御坊の榎
 小木部落の南、諏訪神社のあった山の麓一帯を「町の裏」と呼んでいる。小木ノ城下町の裏という意味である。今はこの辺りは開拓され、肥沃な良田となっているが、昔は大きな池で、其処に大蛇が住んでいて時々村人達の田畑を荒らしたり、人畜に被害を与えた。
 池の傍らに小さな庵をむすんで住まっていた者がいて、土地の人は「御坊」と呼んでいた。
ある晩のこと、その御坊の所へ一人の女が来て、「私はこの池の大蛇であるが、家族が増えて池が狭くて困るので、小木の村全体を池にしようと思う。だが、お前はこの土地の者ではない、可哀想だから知らせるのじゃ。今のうちに何処かに立ち退いたがよかろう。その代り、このことは決して他言するな。もし、他言すればお前の命は無いぞ。」と云って立ち去った。
 御坊は、妙なこともあればあるものだ、しかし小木の村全部が池にされては大変だ。これまで村の人たちの情けによって命を繋いできたのだ、ままよ命が無くなろうと、村人の為に、黙っておれないと、早速、近くの修験寺の三光院へ行って、このことを告げた。
 住職は、それは大変だ、良く知らせてくれた。早速法力を以って調伏してやろうといわれた。
法螺貝がすぐ吹きたてられ、村人達は何事であろうかと、我れ先にと三光院に駆けつけた。住職は仕度を整えて大峰山先達の時に吹き慣れた五升も入る大法螺貝を吹きたて、村人を従えて繰り出し、池の辺に段を設けて、一心不乱に不動明王を念じ、大蛇調伏の秘法を修すること三七、21日。
 満願のその夜、大雨が沛然(はいぜん)として降り、正に盆を覆し車軸を洗うが如し。四面暗黒で一寸先も見えない。
池の廻りは盛んにカガリ火が焚かれ、村の人々は不安な気持で一杯であった。吹きたてる法螺の響き、打ち振る鈴の音、朗々とした読経の声は、周囲の山々に響き渡って、物凄いこと身の毛もよだつばかりであった。
 ややしばらくして、池の水面が渦巻くと、見る間に白く天に沖して一匹の大蛇が昇天した。その姿は、カガリ火の光でも明らかに認められた。続いてまた一匹白く昇りかけたが、忽ち落ちて池の中をのたうち回っていたが、やがて死んで浮かび上がった。
 村人はようやく、我にかえった気持で安堵の胸を撫で下ろした。すると、突然「御坊が死んだ」と叫ぶ者がある。何の病気も無かったのに、急にもがきだして、半時もたたぬ内に死んでしまったのだ。村人の驚きは無理も無い。御坊が知らせてくれなかったら、今ごろは村中が池になっていたかも知れない。
 定めし大蛇の怒りに触れたのだろう、村人の命を救う為に命を失ったのだ。誠に気の毒な事になったと、懇ろに弔い万端営み、その庵の傍らに埋葬して、一本の榎を植えて墓印とし、その後永く恩人の墓として敬ってきた。
 榎は太い枝が八方に広がって巨木となったが、その後次第に枯れたり折れたりして、いまは節瘤だらけの幹を町の裏の風雨に晒している。この榎の枝を切ると「大患い」すると云われ、今でも此れに手をつける者は居ない。