かわらばん 妻入り(発行済み各号PDF版)
 
●良 寛 の 地 に 勤 務 し て          出雲崎小学校 校長 南雲敏行
 私が始めて出雲崎を訪れたのは今から10年程前である。国道352号線の坂道を曲がり下ると目の前に海が広がり、眼下には妻入りの街並が見えた。それがとても印象的で、今でも鮮明にその風景を覚えている。
 其の日の目的は天領の里。 佐渡で掘り出された金銀が荷揚げされる幕府天領の出雲崎に以前から訪れたかった。
 当時の館長さんのお話をたくさん伺うことができた。巡検使、代官所、北国街道等々の江戸時代の出雲崎。石油開発が盛んになり日本石油が日本最初の機械掘りを始めた、明治時代の出雲崎。そして、良寛生誕の地であることも、其の時に初めて知った。
 今年4月、出雲崎小学校に赴任した。赴任した最初の日に、私が知る最初の出雲崎は、海岸地域だったことに気づかされた。早速、校長室戸棚から小学校3・4年生社会で使用する「わたしたちの出雲崎町」を借り、夜寝る前に読みふけった。出雲崎の自然、歴史、仕事生活などの概要がだんだん分かり、自慢できることが増えていった。

出雲崎小学校の自慢は三つの「地域」である。
 ●一つ目は「地域で学ぶ」。駅裏の畑でジャガイモを育てたり大釜谷の梅をもいだり、子供達は地域の
  学び舎でダイナミックな学習を続けている。
 ●二つ目は「地域を学ぶ」だ。カニ釣りや田植え等をしながら、地域の自然や産業を理解していく。
 ●三つ目は「地域に学ぶ」である。昨年度、教育活動への協力者は述べ500人ほどであった。ひとり
  一人の細やかな心が繋がる地域が育んだ人間性や幾多の困難を乗り越えた逞しさ・優しさに、子ど
  もたちは学びながら感化された。

 社会の変化に伴って子どもの生活経験が狭まり、地域の連帯感や、地域への愛着、誇り等も薄らぎがちな昨今である。
 地域全体で子どもにかかわり、地域の子どもを地域で育てる出雲崎の教育は、地域支援本部事業で強化され今に続く。
 有効活用を追及し、出雲崎らしさを一層深めて行きたい。俳句活動・良寛書道展に加え、良寛学習も実践し良寛生誕の地を更にアピールしたい。

●出 雲 崎 町 の 魅 力                  出雲崎中学校    渡辺知子
 出雲崎中学校に赴任して、4ヶ月が経ちました。多くの方々に支えていただき、漸く新しい環境にも慣れてきたと感じる今日この頃です。
 
 さて、出雲崎というと、赴任する前からとても魅力的な町だと思っていました。今は亡き父と、何度か足を運ばせていただいています。
 海を眺めることや、釣りが大好きだった父は、私が幼い頃から、よく海に連れて行ってくれました。なくなる少し前に海に行きたいとと言うので、時間の許す限り、二人で海岸をドライブしました。
 出雲崎の妻入りの街並、浜焼き、良寛様、夕日……。父は様々な出雲崎の魅力を私に教えてくれました。駐車場で休憩をとると、日本海の彼方を、父は何も語らずにジット眺めていた姿も忘れられません。 中学校から海岸に向かう坂道のカーブを曲がると、広大な海が広がります。この風景も、本当に美しいと思います。妻入りの街並がこの地に生きる人々の存在感を際立たせています。そして、行き交う人々を見ればゆっくりと時間が流れているような錯覚に陥ります。

 先日、部活動で三年生の引退に伴う懇親会に参加させて頂きました。その際、夕暮れが近づくと、生徒が「夕日を見に行きます」と言い、全員が嬉しそうに外に出て行きました。
 日が暮れるまでずっと、彼らは夕日を眺めていました。美しい夕景と青春真っ只中の生徒の姿が、とても似合っていました。 
 これから過ごす出雲崎町での学校生活。出雲崎町の魅力を思う存分満喫したいと思っております。
●ご あ い さ つ                  街並景観推進協議会 会長  村越 隆夫
 この度、私達の「出雲崎妻入りの街並景観推進協議会」の総会で会長を仰せ付かりました。よろしくお願い申し上げます。
 歴代会長鈴木豊吉さん、佐々木貞治さん、渡邊常侃さん、それぞれ皆さんが町の歴史のこと、今の現況のこと、豊富な知識とふる里への活性化の強い思いを、先頭に立って推進してこられました。
 今まで協議会が行ってきた主な活動の「街並みギャラリー」「街を花で飾る木製プランターの製作提供」「空き地・空き家の現況調査」「研修旅行」「かわらばん妻入りの発行」などの継続を基本活動として、私はふる里の「妻入り街並景観を生かした街づくり」をメインテーマとし会員地域の皆様と一緒に推進してまいりたいと思います。今後ともご協力宜しくお願い申し上げます。

●良寛堂建立とそれに協力した人々
 
         住吉町 磯野 猛
 平成24年は出雲崎町のシンボル、良寛堂が完成して90年になります。
この良寛堂建立の陰には郷土史家の佐藤耐雪翁の力がありました。耐雪翁は出雲崎編年史の編纂を心掛けられた頃から、良寛を偲びその遺徳を顕彰するため「良寛寺」を建立したいという念願を持っておられました。
 大正初期、日本では良寛に対する研究・評価の機運が高まり、それは良寛の出生地である出雲崎でも同様でした。耐雪翁は町の心ある人達に提唱されました。その呼び掛けに応じた人々が少しずつ集まり、「良寛寺」建立しようという機運も熟してきました。
 耐雪翁は当時宗教界でも著名であった出雲崎町市野出身の豊山大学学長 権田雷斧師に相談、曹洞宗師家の新井石禅師、東洋大学学長の大内青巒師、 そして良寛の研究をされていた山田寒山師を良寛寺造営顧問とし、また自らは発起人を代表して地元の方々と共に「良寛寺造営企願人」として名を連ねました。

【良寛寺造営企願人】 
佐藤耐雪、永滝文作、加藤直重、佐藤九七、勝井幸太郎、磯野辰四郎、鳥井義資、八木徳太郎、新津恒吉、近藤平八、佐藤長之助、本間栄蔵の各氏。
このことについては、耐雪翁が日常のことを記した「用留」に年代順に記されています。

★大正4年 
 真言宗豊山派の大僧正・権田雷斧師、寒山寺住職・山田寒山師と「良寛寺建立の相談をする」「大愚山良寛寺造営趣意書」を近藤潤次郎氏に依頼、草案が執筆される。
★大正6年
 権田大僧正を訪問。良寛寺の勧進を相談、出雲崎の町の有志で良寛会を開催。以降度々会を開いて建立運動の相談する。相馬御風氏初来町、講演される。初対面の耐雪翁は御風さんに協力をして戴くことになった。こうした地道な運動を続け、耐雪翁の熱意により、運動の輪が大きくなり、中央でもこの呼びかけに呼応する人達が増加してきました。この運動に賛同した中央の著名な方々は、

安田靫彦、正木直彦、高浜虚子、富岡鉄斎、小林古径、橋本関雪、小杉放庵、小堀鞆音、津田青楓、小川芋銭、山口蓬春、川合玉堂、郷倉千靭、岩田正巳、樫山南風、人見少華、富取風堂、田中案山子、森田沙伊、中村岳陵、野田九浦、寺崎広業、横山大観、下村観山、川端竜子、前田青邨の各氏です。
いずれも、大正・昭和を代表する日本の芸術家達です。

 運動が全国的に成るに連れ呼び名が「良寛堂」に変化しています。
特に安田靫彦さんは御風さんや雷斧大僧正と共に作品を集め、資金援助の労をとられました。耐雪翁の人柄と熱意が花開いたのです。
 また、井鼻の全久院の住職の努力もあり。良寛堂建立への力になったのです。