「東京出雲崎会」の設立の起因
 昭和16年日独伊三国同盟が締結される等、慌ただしい世相の中、出雲崎尋常高等小学校の校長を歴任された、故長谷川善作氏の法要が多くの参列者のもと尼瀬稲荷町の真宗「養泉寺」に於いて営まれておりました。  その席上、当時世田谷で開業医を営む平澤順一郎氏などによって、<京浜地区在住者による懇親会>が話題になり、それがきっかけとなて、翌17年に京浜地区に住む卒業生数名によるお盆休みを兼ねた同窓会が平澤氏宅に於いて開催されたのです。
 その席には後に初代会長をされた佐藤三千三郎氏、後の幹事長の嶋川潤蔵氏など7〜8名が出席。其処に前もって平澤氏より連絡を受けていた「出雲崎おけさ」の名手、小町南山、名達正城、中川寅吉、小町弥太郎の各氏や三味線・踊り手の方々も馳せ参じ、とても賑やかな会でした。
 これは伊藤丈山氏の証言で同氏は平澤氏の薦めにより、当日「おけさ」の踊り手として同席されたのでした。これが【東京出雲崎会】設立の端緒となったのが実情のようです。


町村合併に伴う 新生「東京出雲崎会」誕生
 一方、戦後に東京西越会も発足し、山後政七氏、赤尾兼章氏などが活躍されていましたが、昭和32年の町村合併により、相互の会も合併し新生「東京出雲崎会」となり、日本閣に於いて61名出席のもとで、第一回総会が開催されました。
 「会旗」新調の思い出  千代田幸八
 ふる里、出雲崎への思いを馳せた先人のご尽力により、昭和18年に「東京出雲崎会」が結成されて以来65年が経ちました。
 会旗新調については十五年以上に遡る、創立50年(平成4年)一つの記念行事として、ふる里訪問交流会を企画。その際の幹事会で五百余名の会員を擁しながら、未だに会旗の無い状況について、この機会に是非とも会旗を新調し交流会に持参すべしとの発言が発端で、幹事会や総会でも承認されました。
 さて旗章、デザインなど色々な問題も多少ありましたが、日頃何かとご指導頂いておりました当時の町役場企画振興課の片山力様のお力添えをいただき、町当局へ町章、デザイン等の使用を認めていただきたい旨を御願い致しましたところ、小林町長・議員全員協議会でご了承いただけた旨の通知を頂きました。
 平成4年6月の「ふる里訪問交流会」で町当局から大変な歓迎を頂き会場で皆様にご披露できたことは、この上ない慶びでした。これからも会旗と共に東京出雲崎会の益々のご隆盛を祈念申し上げます。
●その後の推移と活動状況
 平成4年で会員数、5百余名を擁していたがその後、組織継承を再考するとの認識の基に新会員(戦後世代)獲得へ積極的な活動を行い、平成22年度の総会では参加者254名中、戦後世代が30パーセントを超えるに至ったが、これからが運営と内容についての正念場と考えます。
 毎年3月・第二土曜日に開催の定時総会の他に新潟県人会館での役員会5回と並行し各委員会を開催。懇親会として組織委員会主催の築地浅草の旅(毎回場所変更)や県人会の「良寛に学ぶ会」に参加しています。
 故郷との連携では、お盆の花火大会・船まつり、渋谷ネスパス等での物産展・(財)良寛記念館・出雲崎中学校吹奏楽部の上京時後援等、常に”会と故郷”との二軸を基本として「懐かしがりやの会」を標榜して活動を行って居ります。

歴 代 名 誉 会 長  (敬称略)
初 代 佐藤三千三郎 七代目 大矢  政雄 十三代目 内藤   久吉
二代目 相澤    猛 八代目 千代田 幸八 十四代目 伊藤     勝
三代目 佐藤三千三郎 九代目 丸山    保 十五代目 東條   玉英
四代目 田中   吉次 十代目 鳥井 錬太郎 十六代目 岡田     齊
五代目 嶋川   善一 十一代目 佐藤   憲一 現 会長 中川   久雄
六代目 青山  庄司 十二代目 津山   忠夫