●東京新潟県人会「良寛に学ぶ会」
第十三回(最終回) 勉強会【私の良寛さん】
●良寛の里 (和島について)   和島会会長 羽入次郎さん

 「良寛の里美術館」3万平方メートルの広大な敷地内に各施設が点在している。ロビーからは弥彦山や越後平野が展望できる。
 良寛は晩年、島崎の木村家に身を寄せ6年間地域の人々と穏やかな日々を送られた。自らを厳しく律し、名利に走らず修行を続けた。 なお貞心尼との清々しい交際を始めたのが「島崎」の地である。
 二人で歌を詠み交わして歩いたであろう木村家から良寛の里までの道が「はちすば通り」と名付けられた。
木村家、隆泉寺、宇奈貝志神社など数々の名所旧跡があります。

●良寛雑考(私の好きな良寛の詩歌)   分水会会長  平出 英雄さん

 雑誌「良寛」からの抜粋で読者の投票数の多い順に並べます。

10票 ◎霞立つ 長き春日に 子供らと 手まりつきつつ けふもくらしつ(他3首)

9票
  ◎月よみの 光を待ちて帰りませ 山路は栗の いがのおほきに
    ◎世の中に まじらぬとなはあらねども ひとり遊びぞ 我はまされる
    ◎たらちねの 母がかたみと朝夕に 佐渡の島べを うちみつるかも
    ◎いにしへに 変わらぬものは 荒磯海と 向かひに見ゆる 佐渡の島なり

8票 
◎あしびきの 岩間をつたふ苔水の かすかに我は 住みわたるかも(他2首)

4票
 
◎いついつと まちにし人は来たりけり 今は相見て 何かおもはむ
   ◎かたみとて なにかのこさむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみち葉
   ◎きてみれば 我がふるさとは荒れにけり 庭もま垣も 落葉のみして
   ◎沖つ風 いたくな吹きそ 雲の浦は わがたらちねの 奥津きどころ
   ◎道野辺に 薫つみつつ鉢の子を わすれてぞ来たし その鉢の子を
   ◎さすたけの 君がすすむるうま酒に 我れ酔ひにけり そのうま酒に

どの作品も良寛調と言えて、大部分は乙子神社時代と推定される。

●出雲崎の良寛さん 
          出雲崎会元会長 津山 忠夫さん


 今年9月に良寛堂建立90周年記念で良寛縁の方々の講演会がありました。大勢の聴講者や参列者で賑わいました。
 また来年度から良寛記念館が町の管轄になるようです。
此処に遍澄画 「良寛和尚像」のコピーをお渡しします。今回の記念にしてください。

●良寛の心と、ともに 
   
        良寛に学ぶ会会長   小林 保廣さん

今回を持ちまして 良寛に学ぶ会も最終回を迎えました。皆さんと共に、良寛の心を持ち続けて共に過ごしましょう。この会を進行して下さった役員の皆様ほんとうに有難う御座いました。
●東京新潟県人会「良寛に学ぶ会」 
第十二回 勉強会【良寛さんと女性】
講 師:田村甚三郎さん
     (和島村出身、柏崎歯科医師会会長、
     柏崎良寛貞心尼会会長)
日 時:平成24年8月24日(金)
会 場:表参道・新潟館ネスパス 3階

主 催:東京新潟県人会(良寛に学ぶ会」
共 催:東京糸魚川会・首都圏ふるさとわしま会・
     東京出雲崎会・東京寺泊会・東京分水会
     首都圏えちご吉田会・首都圏岩室だいろ
     会・東京相川会

講師:田村甚三郎さんの言葉
 良寛はその境涯から悩みも多きかっただろうが、修行を積むことによって自然を大切に思い、悠々自適に見える生活をしながらも……、
 良寛の本当の心、生き方の心はまだまだ分からない。良寛のことを調べるほどに、今の世に中には良寛の心が必要なのだ、と感じている。

 良寛さんは、慈愛に満ちた心で清楚な交流を続けてこられた多くの女性の中でも特に、貞心尼の存在が心の大部分を占めていたのではないかと思います。

 貞心尼は1798年(寛政10年)長岡藩士・奥村五兵衛の次女として生まれ幼名”ます”と云う。成人し、北魚沼郡小出島の医師・関長温に嫁す。 
1820年(文政3年)夫と死別し長岡に帰り、その後に柏崎在の下宿の閻王寺で剃髪し尼僧になる。
1827年(文政10年)3月長岡在福島閻魔堂に移り、4月木村家の良寛を訪ねたが留守のため、手鞠と歌を託す。この秋に良寛と木村家で会ったらしい。
1828年(文政11年)良寛は福島閻魔堂に貞心尼を訪ねています。(同年11月、三条大地震あり)。良寛の晩年になり歌の遣り取りが頻繁になっています、1829年(文政12年)前後。 
1831年(天保2年)正月6日 良寛禅師示寂す、貞心尼これを看取る。
1833年(天保4年)良寛禅師の墓碑が建立される(隆泉寺)
1872年(明治5年)2月11日 貞心尼「不求庵」でこの世を去る

≪良寛・貞心尼 書簡の一部≫   

           これぞこの仏の道に遊びつつ つくや つきせぬ御法(みのり)なるらむ  (貞心)
      つきて見よ ひ ふ み よ い む な や ここのとを とをと 納めてまた始まるを (良寛)

           君にかく あひ見ることの嬉しさも まださめやらぬ 夢かとぞ思ふ  (貞心)
      夢の世に かつまどろみて夢をまた 語るも夢も それがまにまに  (良寛)

     いついつと 待ちにし人は 来りけり 今は逢ひ見て 何か思はむ (良寛)
           いき死にの 境はなれて 住む身にも  さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心)

●著書に関するお問い合わせは下記へ…

田村甚三郎
住所:新潟県柏崎市中央町12―19
電話:0257―22―3774
●東京新潟県人会「良寛に学ぶ会」
第十一回 勉強会【良寛さんの師と友人達】


講 師:藤田正夫さん
    (元分水町町長 全国良寛会参与)
日 時:平成24年5月18日(金)
会 場:表参道・新潟館ネスパス

良寛さんが敬慕した大而宋龍禅師。お互いに死んだ時の導師を約束した徳昌寺の活眼大機和尚。
歌友であり外護者であった阿部定珍。良寛さんの敬慕者だった小林一枝さん等の方々のお話です。



●誰が大忍国仙に良寛さんを
 良寛さんを大忍国仙に託したのは誰でしょうか。良寛さんは安永4年7月以後、代官所に出願して家を出ています。父・以南が町年寄敦賀屋長兵衛を呼びつけて叱責したことで家を出ています。
 放浪先は新津市本町横山家で、観音堂で寝泊りしています。ここで良寛さんが出会った人が大而宗龍だと云われています。彼が国仙和尚に良寛さんを託したのだと云われています。
●良寛さんが敬慕した大而宗龍
 宗龍は大変な活動家で全国各地へ説法の行脚に明け暮れる生涯でした。宗龍は馬で旅をしますが、遠路疲れた弟子に馬の背を与え、自分が手綱を引く「馬肩和尚」と呼ばれていました。良寛さんの生活は宗龍の遺言を忠実に守っています。
<宗龍遺言>破戒無福無徳の乞食僧、龍身の持っている涅槃金だけで葬儀を。葬式には一切紙を用い、絹織物等の高価なものは使うな。牌前の膳は一菜だけでよい。真実の供養は座禅である。経の代わりに座禅すれば、一坐でも素晴らしいご馳走より勝る。
●良寛さんの葬儀の導師、活眼大機和尚
 良寛さんの葬儀に15ヶ寺18人の僧侶が集まっています。導師は与板町「徳昌寺」の活眼大機和尚です。良寛さんと大機和尚は「俺が死んだら、お前が導師をしてくれ」「お前が死んだら、俺が導師をする」という約束だったと伝えられています。しかし同寺は格式のある寺なので、住職の資格も無い良寛さんが残念ながらその導師を勤めることは出来ません。良寛さんとはそれ程偉い人と尊崇の例え話だと思います。
●歌友であり外護者であった「阿部定珍」
 良寛さんを大変尊敬し、最も親しかった人が阿部定珍です。燕市の庄屋で酒造業を営んでいました。阿部家に残る良寛遺墨は国の重要文化財に指定されています。昌和の遺墨は2人の親密振りが良く分かります。解良栄重の良寛禅師奇話に「万葉集を読まなくてはならない」と教えられたとあります。
●正貞に形見の手鞠を
 正貞は良寛さんより32歳も若く、父・鵲斉と同じく医業をしています。正貞は良寛さんを深く敬愛し、酒、タバコ、などを贈り和歌の指導も受けていたようです。良寛さんが国上を去るにあたって正貞に自作の手鞠、芴、茶碗を贈っています。原田家には良寛自作の手鞠のほかに良寛さんが使っていた手鞠もあります。
 良寛さんが形見を贈るほどの親密さがわかります。
●小林一枝の日記
一枝は旧三島郡寺泊町引岡村の農家で資産家のようでした。良寛さんも立ち寄って親交がありました。
同年(文政9年)5月16日。吉左衛門来て良寛禅師を置くべき庵を作り度と申してかへられる
同年5月22日。国上良寛禅師許へ見舞い源左衛門より沙汰せられし所を語り候処、前より在りし庵なら宜しけれども新しく作るにはイヤと被申候……。

●東京新潟県人会「良寛に学ぶ会」
 第九回 勉強会【島崎 木村家の良寛さん】

●講師:吉岡二郎氏
元小学校校長、長岡良寛会会員
…新卒時、木村家に下宿…

●日時:平成23年10月7日(金)

●会場:表参道・新潟館ネスパス
49人もの受講者が熱心に拝聴されていました。


(今日は愛語を中心に、お話を進めます。)

 愛語を用いて子供達を悪の道から救ってください、今から愛語を使ってください。それが出来るのは「有難い感謝、尊敬、愛の精神」を持ち合わせておられる皆様方が、最も適任者です。
 愛語は道元禅師の「正法眼蔵」より良寛が謹書したもので、戒語は自分で決めて、それを守るものである。
愛    語 優しい言葉
愛語ト云フハ 衆生ヲ見ルニ マズ慈愛ノ心ヲ オコシ
顧愛(こあい)ノ言語ヲ ホドコスナリ 
ホヨソ暴悪ノ言語 ナキナリ
世俗ニハ 安否ヲトフ 礼儀アリ
仏道ニハ 珍重ノ コトバアリ
不審(ふしん)ノ孝行アリ
慈念衆生猶如
赤子ノオモヒヲ タクハヘテ 言語スルハ 愛護ナリ
徳アルハ ホムベシ 徳ナキハ アハレムベシ
愛護ヲコノムヨリハ
ヤウヤク 愛語ヲ 増長スルナリ
シカアレバ ヒゴロ シラレズ
ミヘザル愛語モ 現前ニ スルナリ
現在ノ 身命ノ存スルアヒダ コノンデ 愛語スベシ
世々生々ニモ  不退轉ナラン
怨敵ヲ降伏シ 君子ヲ和睦 ナラシムルコト
愛語ヲ本トスルナリ 向テ 愛語ヲ キクハ
ヲモテヲ ヨロコバシメ ココロヲ 楽シクス
向カハズシテ 愛語ヲキクハ
肝ニ銘ジ 魂ニ銘ズ
シカルベシ
愛語ハ 愛心ヨリ オコル
愛心ハ 慈心ヲ 種子(しゅし)トセリ
愛語ヨク 廻天ノ力(ちから)アルコトヲ
学スベキナリ
タダ 能(ハサ)ヲ 賞スルノミニ アラズ
人々に対して 情けをかける
思いやる
荒々しい

相手を重んじる
ゆるぎない子弟愛
丁度 ・ ・のように

良いところ
愛語を使うと
次第に

沢山現れる
死ぬまで
後々の世  怠けずやる
かたきを取り静める 権力者も和睦
お会いして
顔を
蔭で聞けば
心にしみる
だから
思いやる
いたわる心
願望は必ず成就
知る
能力、技能 
沙門良寛謹
おかの戒語
おかの(早川家の子女)戒語は、結婚の際、良寛に家庭円満の秘訣を依頼したものである。
一、あさゆふおやに川かふまつるへき事
一、ぬひをり すべてをなごのしょさ つねにこころかくへき事
一、さいごしらひ おしるのしたてよう すべてくひもののこと しならふへき事
一、よみかき ゆだむすべからざる事
一、はきさうじすべき事
一、ものにかかろふべからさる事
一、上をうやまひ下をあわれみ しゃうあるもの とりけだもの にいたるまてなさけを かくべき事
右の(縦組)くだり つねずねこころ がけらるべし
おかのとの

 以後、早川家の家訓 嫁にやる時に必ず持たせる。おかの 維新の焼き払いで早川家を守る。
●東京新潟県人会「良寛に学ぶ会」
第六回 勉強会
【江戸時代出雲崎の歴史と文化,文政期に生きた良寛さま】
●日時:平成23年2月18日(金)1:30より
●場所:表参道新潟館ネスパス
●講師:(財)良寛記念館理事、
     東京出雲崎会会長、内藤久吉氏
●演題:江戸時代の出雲崎の歴史と文化
     ・文政期に生きた良寛さま

 善男善女参加者68名の多くを数え、内藤氏の講演会が始まりました。

 名主名門「橘屋」の後継者として生まれ、幼少期より学問(仏教学・諸々古典文学)を独力でを身につけた良寛さまでした。
 当時は、出雲崎の名主・橘屋(山本以南)と尼瀬の名主・京屋(野口寛蔵)とが代官を抱き込んでの醜い利権争いが激しく行われていた。 その中で長男栄蔵(良寛)は、父以南から名主見習い役を仰せ付けられて否応無く利権争いの渦中にどっぷりと飲み込まれていくのである。
 
 町民の争いの仲介役、代官の過酷な要望や揉め事の立会い解決やら、江戸から送られてくる犯罪人の分別で、死刑に処せられる者の刑場での執行に立会あわなければならない。
 純粋無垢な良寛は人間の強欲や世の哀れさ・刹那さや無常に心がズタズタに引き裂かれたであろうことは容易に理解出来るのである。
 良寛22歳の時、光照寺の山門を訪れ、そこで出家し国仙和尚の導きで岡山の玉島円通寺にて仏教の道に入り修行するのである……。
 内藤氏は田舎言葉を巧みに交え分かりやすく講演され、真剣に聞くうちに時間となりました。
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