激動の時代を越えて  七八会(なっぱのかい) 
  昭和20年終戦の年に小学校を卒業した七八会は、平成21年6月19日”喜寿の集い”を越後湯沢で開催、遠くは大阪・名古屋から馳せ参じ総勢26名が集いました。 
 一望千里が売りの露天風呂から谷川連峰は若干霞んでいましたが、素晴らしい初夏の展望も楽しむ事が出来ました。
 生まれは戦前・小学校は戦中・青春時代は戦後の混乱期・働き盛りは高度成長期・やがてバブルとその崩壊。 まさに百年いや千年に一度の激動の時代を生きてきたので話題は多く、語り尽きません。
  宴終わり近く用意した「出雲崎おけさ」のテープが流れても、積もる話に夢中で誰も踊りません。宴会後も部屋で延長戦となりました。
 翌日は宿で寛いだ後、ミニ観光バスで「天地人」の遺跡を巡り、なかでも雲洞庵本堂は後江戸時代、出雲崎の小黒陣内を棟梁とする大工群の建立で、新潟県文化財に指定されていることに感銘を受け、出雲崎の誇りと思いました。
 記念品は、同期の磯田幸雄氏作の銅製ミニワインカップを、おみやげに帰路につきました。  (MY)

 (手記) ……集団疎開 出雲崎の思い出……  
               小 野 弘 義 (七八会)

 昭和19年8月29日、堀切国民学校の2年生〜6年生までの103名(男子58名・女子45名)と付き添いの先生と寮母数名が、見送りの父兄共々夜遅く上野駅に集結、汽笛と共に列車が動き出す。家族と暫しの別れ、少々悲しさが込み上げて来る。
 しかしこれから始まる未知の生活への期待の方が優先していた。十数時間の長旅の後無事に、翌30日午前8時40分出雲崎に到着する。
 天候は晴、未舗装のやや登り道を徒歩で町へ向かう。学童の足だ、2時間ほど要したのでは?いよいよ町に近づく下り道を左に大きく曲がった直後、我々の眼前に飛び込んできた穏やかな紺碧な大海原、日本海だ!。一瞬息を呑む。 左側に我々には珍しい浜焼店を見て町へ。 途中、勝井家、柏屋、掘善組とに分かれ、男子31名、くるまやに到着二階に。
 翌日から広い尼瀬海岸での体操、手旗信号の練習、そしてクラゲの増えた海で遊ぶ。

  
9月某日
強烈な台風に見舞われる。停電暗闇のなか、強風に吹かれる度に二階がグラグラと揺れ動き、恐怖の一夜だったと記憶している。学校生活は、小林・高島両先生で、各6名編入された。
 高台の上校舎、広い講堂、狭い校庭、校舎から望める雄大な日本海。高等生の先輩達、秋のハイキングだ…(野グミ)を初めて見た、そして食べた。 甘いアケビ。教室内での貝殻遊び全て目新しい。
 食べ盛りの我々は、三食だけでは空腹が満たされない。何処で手に入れたかサツマイモを薄く切り、原油採掘櫓に続くボイラー室で焼く。生芋に粉ミルクを付けて食べる、これがまた美味しい。
 大衆浴場の近くだったと思うがパン製造販売店があり、少々アンモニア臭のあるコッペパン風の蒸しパンを別の店で大豆の炒豆を、よく並んで買った。この他に内藤薬局から、おやつの代用食としてエビオス・わかもと・チョコラADなどを買って食べていたが、間もなく売って貰えなくなる?。

 
12月某日 
4名ほどののグループに別れ各家庭に招待されることになり小生は他の3名と内藤薬局へ。目の前に出して頂いたのは、それは大きな(おはぎ)(ぼたもち?)のご馳走だった。
 いやー美味しかったなぁ。他のグループも皆満足の様子だった。寮には、女子高の吉川(現性、南雲)さん達が月に数回、我々の身の周りの世話に見えて話の相手にもなって貰い大助かりだった。

 この年は、例年に無い豪雪とかで降雪の凄さには驚いた。登校時には石段がゲレンデになり閉口したがそれでも竹下駄で遊び楽しんだ。
 冬季の荒れる日本海、夏季とのあまりの相違に呆然とする中で波打ち際に漂う半透明の肉厚のクラゲを棒切れなどで突付いて遊んだり、束の間に見せる冠雪した佐渡ヶ島に感激もした。
 降雪の中クラス全員で「雪はしろがね」を合唱しながら町中を行進したことや講堂での高等生のブラスバンドに依る素敵な演奏も懐かしい。

 年が明けて
3月某日
前日からの雪から雨に変わり気温の差に春を感じる6年生は卒業のため10日に帰京したが、翌日東京下町があの忌まわしい大空襲となった。三歳年下の弟なども大変な思いをしたようだ。
  小生7ヶ月程の短期間の出雲崎だったが、思い出の濃い疎開でした。