末廣会 喜寿を寿ぐ
 

 「人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり……」
 織田信長が「敦盛」の舞の一節にこの数句を繰り返し舞ったと言われているが平均寿命が80歳を超える現代、全く隔世の感が致します。

 昭和8年生まれの私達は満77歳の喜寿を迎えました。 昭和16年、小学校2年生の時、太平洋戦争が勃発し当初は戦勝に湧いていましたが年が経る毎に敗色が濃厚となり、19年頃にはB29が出雲崎の空にも襲来し、授業中警戒警報のサイレンが鳴ると裏山に逃げ込んだり家に帰っても夜、防空壕の中で震えることが続きました。
 育ち盛りだと言うのに食べるものも無くお米は配給制で食糧難でお弁当も持ってこれない子も何人かおりました。ただ出雲崎の海には魚が獲れイワシ漁の網が砂浜を埋めておりました。良寛堂で出征兵士を見送り、新道で私達小学生が小旗を振って送った事が思い出されます。
 小学校6年生の暑い日、海に入っていると誰かが「日本は負けたぞぉ」と叫んでいて敗戦を知りました。
明日から灯火管制が無くなり夜電気が点けられると喜んだことを覚えております。
 翌昭和21年に小学校を卒業し、漁師となる者・地方へ働きに出る者・中学校へ行く者と各々生きる道を求めて巣立って行きました。故郷を離れて何とか自立の目途の出来た頃、東京近郊に住まいする同級生が集まりだし「東京末広会」として毎年回を重ね今年で59回を数えました。
 子供の頃皆貧しかったが出雲崎の荒海と生きの良い魚で育てられたせいか皆至って元気で現在までこの会で亡くなった者は数人しかおりません。
 同級生は先ず、出雲崎小学校の校歌「伊夜日子、角田米山の…」を合唱し故郷を偲んで”出雲崎おけさ”を踊ります。最近はジェロの「海雪」も合唱します。
 
 喜寿のお祝いとして平成22年6月19日(土)明治記念館を会場に30名が集まりました。集団疎開で昭和19〜20年一緒に学んだ堀切小学校の友も数人やってきました。帰りに皆で神宮外苑の菖蒲園を訪れ綺麗に咲き競う花菖蒲に生きる活力を貰い、これからも健康で、傘寿・米寿・卒寿を目指そうと確かめ合っての散会でした。

      
ふる里(出雲崎)を 愛する友ら 集い来て
                          おけさ踊りて 喜寿をことほぐ

 (新宿区在住 竹田  弘)